愛着障害を克服したいブログ

35歳から愛着障害の克服を目指す。そのための取り組みや日々の心情、役立ったことなどをつらつらと。

相互依存=私もOK、あなたもOK

相互依存ってなんだ?

 

前回の続きです。

私たちは産まれてすぐの赤ん坊の頃、一人では何もできません。

生命維持に必要な食事ですら一人ですることはできないので、

親に頼ることになります。おんぶに抱っこってやつですね。

 

これが俗に言う「依存」という状態です。

赤ん坊に依存って言葉を使うのもおかしな感じがしますけどね。

 

恋愛で言ったら

「あなたがいないと生きていけない」とか、

 

鬼束ちひろで言ったら

「あなたに触れない私なら ないのと同じだから」とか、

 

よくある事象では

「メールの返信が遅いのはきっと私のことを嫌いになったからだ」とか、

 

 

自分の存在価値を相手の判断に委ねている状態、とでも言いますか。

 

 

自分で自分の価値を認識していないので、

「相手が私のことをぞんざいに扱うということは、

私ってどうでもいい無価値な存在なんだ」と勝手に認識してしまう。

 

逆に言えば

「彼がいつも私を気にかけてくれて、大好きだよって言ってくれる。

メールも電話も私のしたいタイミングで帰ってくる。

デートもいつも楽しませてくれる」

 

そんな状態だときっとあなたはこう思うんじゃないでしょうか。

「相手に大切にされてる私って、何て素晴らしいんだろう!」

つまり相手が自分を大切に扱う時は、自分もまた素晴らしい存在だと感じられるんです。

 

ここで起きている恐ろしいことは、

「あなたの価値は相手が決めている」ということですね。

 

本来なら自分の価値は自分で見出して認めてあげるものだと思うのですが、

複雑な家庭で育っていたり、

恋愛関係で手痛い失恋があったりすると

自己肯定感がうまく育まれず、

自分で自分の存在を認められなくなってしまうのです。

 

自分の価値はいつも相手が決めるので、

相手の行動や言動に一喜一憂しなくてはならず、

依存している状態の恋愛ではとても苦しい思いをするハメになります。

 

その一方で「自立」という言葉があります。

「依存」の反対ですね。

 

子供がすくすく育っていく中で、

「私はもうお母さんの手は借りない!

一人でできるもん!」

と自分ひとりの力で生きていこうとすることを「自立」と言います。

 

恋愛で言ったら

「あなたがいなくても生きていけるし」とか

「彼ってなんか頼りないんだよね。私が疲れた時にもたれかかったら潰れそう」とか

「彼ばっかり甘えてくる。私は弱音を吐けないのに」とか。

 

自分は相手より大人なので、すべて一人で頑張って処理しようとします。

だって自分より弱い(ように見えている)相手は庇護してあげなきゃいけないし、

親が子供に「育児しんどいわ〜。明日食べるご飯にも困ってるわ〜。赤ちゃん、なんとかして!」などというような弱音を吐かないのと同じように

一人で解決する道を模索し、ズンズン進んでいってしまいます。

毒親の場合、ガンガン子供に弱音吐いてきたりするんですけど、それは今はスルーしておきます。話が進まないので)

 

 

あれ?自立の恋愛もなんか苦しくない?

 

相手に依存せず、自立的な立場に立って、相手よりいつも頑張って、

自分が寛容になって相手を甘えさせてあげて、でも自分は頼らない。

それもまた、とても辛い恋愛なのですね。

 

なんでか?

 

だって恋愛って一人でするものじゃないのです。

必ず自分がいて、そして相手がいて、お互いに影響し会う関係だからです。

 

じゃあどうすればいい関係になれるのか?

賢いあなたはもうお気づきかもしれませんが、

そこでようやく「相互依存」という道が見えてくるのです。

 

 

相互依存って何?

それは、お互いが「依存」の立場になったり「自立」の立場になったり、

時と場合によって変化し続ける関係です。

 

ようは自分が甘えたら次は相手を甘やかしてあげる、

自分が辛い時は慰めてもらうし、相手が辛い時は自分が慰めてあげる。

自分ばかりが一方的に与えたり、与えられたりする関係性ではなく、

必ず「相互」の関係が成り立つという思いやりのある関係性のことですね。

 

なんだそんなこと?って思いますよね。

当たり前にお互いを思いやることの大切さ。

理屈ではわかっていても、いざ本当に本気で好きな人相手にこれをやろうとすると、

愛着障害のある人にとってはけっこう大変なことがあると思います。

 

 

なんでって…?

普通の認識を、普通に育てることのできない過酷な環境にいた方も多いのです。

自分の心を守るために、自分なりの愛着スタイルを作り上げて今まで生きてきたので、

「大多数はこうですよ〜」

ってある日突然言われても、そんなものは本人の頭の中にもないですし、

感情もついていかないので理解できないことが多いんです。

 

それに恋愛に関しては普通の人でもかなり感情が揺さぶられますから、

もともと愛情に対して繊細な感受性のある人にとっては、

「頭ではわかってても心がついていかない」とか

「つい相手のことを試してしまう」とか

 

パートナーが嫌がっていると頭ではわかっている行動をしてしまって

「やめたくてもやめられない…」

「自分ってダメな奴…」

と自己否定のループにはまりやすくなってしまうのですね。

 

でもそんな自分を許しながら、パートナーと相互依存の関係性になれるようゆっくり進んでいけると良いと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「諦め」とデッドゾーン

先ほどの記事

 

changestep.hateblo.jp

 

では、諦めの気持ちを書きました。

ずっと走り続けていたら疲れてしまうのは当然なので、

疲れたら休むということを取り入れていけたら良いなとの思いで書きました。

愛着障害を抱えている人は、意識的に休まないとずっと傷心を抱えたまま走り続ける道を選ぶ人が多そうだと思ったので。

 

ただ休んだ後には戦線離脱しても良いし、

再びレースに戻っても良いと思います。

それがデッドゾーンを超えるという、新しい可能性につながるのだと思います。

 

デッドゾーンって何?

 私の今いる状況で説明してみます。

私:好きな人がいる。

付き合いたくてデートに誘ったりあの手この手で彼を落とそうと頑張ってきたものの。

なんかつれない、誘いを断られる→振られる。

そうすると「こんだけ頑張っても振り向いてくれないのね。フンっ!

じゃあもうあんたなんかいらない!

本当はあんたのことなんか好きじゃなかったんだからね!あっかんべー」

 

というように、思い通りにいかない相手に対する諦めや、

彼を落とせなかった失敗感を怒りで表現します。

 

でも本当に欲しくないものに対して人って本来は無関心だから、

こんな強がりが出てくるってことは本当は喉から手が出るほど欲しかったもの。

という見方をします。

そうまでして望んでも手に入らないからとても辛い。

じゃあ本当は「いらないものだったんだ」と思い込んだら楽じゃない?

だってそしたら、「欲しかったけどもらえなかった」って事実は見なくて済むもんね!

 

それが「あんたのことなんか本当は好きじゃなかったんだからね!」という強がりだったり「もういい、疲れた」という諦めの気持ちとして現れてきます。

 

そしてこの「もういいや」という気持ちがデッドゾーンです。

私は今はっきり言ってデッドゾーンと、

その先の相互依存に向けて前進するかのはざまにいると自分では感じています。

 

 

じゃあ相互依存って何?ってことですが、それはまた別の機会に書こうと思います。

今日はちょっと、疲れちゃったので。

「もういいや」という納得感

うまくいかない彼との関係「もういい」「もう疲れた」は悪いことなのか?

気になる彼との関係がうまくいかない。

思ったように進展しない、付き合っていても自分ばかりが我慢しているような気がして、何だかしんどい。

 

そんな時に湧き上がる気持ち。

向こうはいいよね。私に甘えたい時に思いっきり甘えられて。

 

私が弱音を吐いても彼は否定してくるし、慰めてくれない。

そして

「もっと頑張れ、そんなの大したことない、いつもみたいに笑って」

なんて言われた日には相当しんどい。

 

何?私は弱音を吐くことも許されないわけ?

あんたに酷いことされてもいつでも笑っていなけりゃならないっての?

 

そんな気持ちになっても仕方ない。

だってそれは事実だから。

自分の気持ちを押し殺して、相手に合わせて。

辛くても我慢して、して欲しいことがあっても言えなくて。

 

相手に伝えるまでに

「こんなことを言ったら傲慢だと思われないだろうか?」

「図々しい子って思われないかな?」

「彼は今忙しいみたい。そんな時にこんなこと言ったら我儘かな?」

etcetc…

そんなことばかり考える。

 

もういい、もう疲れた。もう頑張れないよ

あなたの心が悲鳴をあげる。

それもそうだ。一方が支え続けているだけの関係なんて続かない。

それは歪な関係。あなたは彼のお母さんじゃないのにね。

このブログに辿り着いて読んでしまうくらい、もうあなたは疲れ切ってる。

 

普通の女性より、きっと頑張り屋さんなあなた。

「もうやめたら?そんな男。放っときなよ」

そんなことを友人に何回も言われたりしてきたかもしれない。

 

それでも彼との関係をなんとかしたくて、

良い方法はないかとネットを彷徨ったり心理学を学んだり、

かたっぱしから男女の恋愛をうまくいかせるための書籍を読みあさったり。

それでも満足できなくて、不安でこのブログを読んでいる…。

 

もう、いいんだよ。

「もう疲れた。なんか、もういいや」

その気持ちは、あなたの「納得感」の表れだと私は思います。

普通の女性よりパワフルなあなた。

そんなあなたが「もういいや」って感じる時。

 

それは本当にあなたが全力で頑張った時。

頑張って頑張って、だけどどうにもならなかった時。

そこまで疲弊するまで走り続けてしまったあなた。

それにもかかわらずうまくいかない関係なら、もう休もう。

もう十分、あなたは良くやったって自分で自分を認めてあげよう。

 

きっと素直じゃないあなたの性格。

「もういいや」なんて言い方して、自分に対しても強がってはいませんか。

「もういいや」はあなたの「納得感」ではないのかな。

 

あなたが彼に対して全力を出しきって、

「もうこれ以上ないほど、彼に優しさや思いやりを出し尽くした証」じゃないのかな。

今やめても、誰もあなたを責めないです。

 

もう少し頑張れば何とかなるって?

彼も変わるかもしれないって?

そんな風に思いながらあなたはいったい何回、彼にチャレンジしたんだろう。

 

あなたの中の「もういいや」は同時に、

「もう休みたい」というあなたのサインだと私は思います。

 

彼ばかりじゃなく、私の話も聞いて欲しい。

私のことや、私の事情、私の気持ちも顧みて欲しい。

 

そんな気持ちがあったけど。

でも、それは叶わなかった。

 

だから、もう休もう。

彼のことは、今は放っておきましょう。

傷ついて疲れ果てたあなたの傷を癒す方が先だから。

彼に返り討ちにされて滅多刺しにされているあなたの傷を、

私は優しく手当してあげたいと思う。

 

それは経験した人にしかわからないから。

「大丈夫大丈夫!まだ平気」なんて思っていても、

あなたの体力はもう尽きかけてる。

倒れこむ前に、休みましょう。

 

私も今日まで頑張ってきたけれど。

もう休みます。

もう、頑張れない。もういいや。

そう思う出来事があったから。

だから、おやすみなさい。

 

願わくば、あなたもゆっくり休まれますよう。

ほんの数時間でもいいから、あなたも心を休めてあげてください。

 

 

 

 

 

誕生日のドタキャン

私の痛い経験なども書いておこうと思います。

私は35歳の誕生日、ずっと憧れていた人に食事の約束をドタキャンされました。

 

彼とは習い事の場で出会いました。

一目惚れというヤツで、どうにかして近づきたくて

彼に会える少ない機会を生かそうと必死でした。

彼に会えるのは半年の間で二回と、なんともチャレンジャーな恋でした。

 

習い事の帰りに一緒に帰ろうと誘ったり、

わからないところを「教えて」と言って会いに行き、

彼から食事に誘ってもらうことに成功。

そこまでは順調すぎて怖かったですけど、その後がやっぱりいつものパターンでした。

 

「この素敵な彼が、私を好きになるはずがない」

連絡先を交換して、彼から毎日連絡が来るようになりました。

私はとても嬉しくて、毎日のメールが待ち遠しくて、

ずっと携帯を握りしめて四六時中チェックしてました。

 

でも「調子に乗っちゃいけない」「彼が私を好きとかありえない」

「好きってバレたらダメ!だからちょっとはそっけなくしなくちゃ」

「よし、メールの返信を遅らせよう」

「デートの誘い、一回断っておこう。

デートの前日に誘ってくるなんて失礼だし」

 

ってな具合で、彼から逃亡を図り始めました。

この時期の馬鹿野郎な私を殴りたい…。

 

1年ごしの片思い、なんとか近づきたいと思っていた人。

それでも、近づかれると怖くなる。

 

そんなわけで一度断ったデートだったのですが、

彼の方から「次の週は予定どうですか?」と代替を提案してくれました。

ちょうどその週に私の誕生日があったので、

キタコレ!と思いながら、代替日の中にしれっと私の誕生日を紛れ込ませました。

 

で、彼はまあまんまと私の罠にかかって

「それじゃあ誕生日(彼はこの時この日が私の誕生日とは知らない)に会いましょう」ってことになったのです。

そこで調子に乗った私は

「実はその日誕生日なんです〜。一緒にケーキが食べたいです」と言ってみました。

脈アリかどうか早めに知りたかったし、ぶっちゃけ焦っていたので。

 

その後はね、もうね、お分かりの通りですけど。

そのメールをしてから返信がめっちゃ遅くなりました。

合う場所とか時間とかどうします?って詳細を決めるのに時間がかかるわかかるわ。

時間だけ決めるのに3日放置されました。

それで場所をどうするか?って連絡が途中のまま、前日の23時を過ぎても連絡が来ませんでした。

「クンクン。これはドタキャン野郎の匂いがするぞ!」って思ったのですが、

ずっと憧れていた人だったので「そんなはずないよね、ハハっ」と自分をごまかし迎えた当日の朝…。

 

「急に仕事が入っちゃって行けなくなった、ごめん」

と連絡が入りました。

 

 

ドタキャンの予感はしていたのですが、実際にされるとショックでショックで。

「どうしてわざわざ当日の朝にするんだろう?嫌がらせかな?

そんなに私に脈なしだって知らしめたかったのだろうか?

性格悪すぎやしないか?もっと前もって言ってくれても良かったんじゃない?

こんな最悪な気持ちで誕生日の朝を迎える人の気持ちも考えてよ!」

 

そんな気持ちで、怒りや屈辱、悲しみ、恨みつらみetc…。

いろんな感情が私の中を駆け巡りました。

正直ずっと立ち直れませんでした。復調するのに三ヶ月経ってしまいました。

 

ドタキャンされた後ですが、特に相手からはフォローがなかったです。

「本当にゴメンなさい。仕事が優先なんで」と、何度もメールで言われました。

え?別に私、「仕事より私を優先して!」なんてあなたに言ったことありませんけど…??

ただでさえドタキャンしてるんだから、そんなことわかりきっているのに、わざわざ言葉で念押し(しかも何度も)しなくても…。

なんだかなぁ…。

 

そんなことしなくてもわかってるよ。

こんな私のこと、あなたが好きになるわけないって。

本当は迷惑だったんだよね、でも私が強引だったから断れなかったんでしょ。

でも酷すぎる。こんなやり方許せない。私をバカにしてる!

自分のことしか考えてない自己中!死んじゃえ!

 

私のプライドはズタズタでした。ただでさえ自尊心低いのに、誕生日の朝にドタキャンはこたえました。

三ヶ月ずっとそんな気持ちを抱えていたので、かなり辛かったです。

 

 

しかも私は誕生日にドタキャンされるの、この人が初めてじゃなかった。

 

何の因果かわかりませんけど、私は自分の誕生日をドタキャンされるのはこれが初めてじゃないのです。

好きになる人には必ずと言っていいほどドタキャンやスルーをされますし、

付き合っている人がいる時でも私の誕生日はスルーされます。

そして相手の誕生日は祝ってあげるという、地獄のような日々を過ごしていました。

 

私は何が楽しくてこいつと付き合ってるんだ??

こいつ、私のこと何だと思ってるんだ??

私に興味なさすぎるだろ…。

何で私の誕生日は平気でスルーしてくるくせに、

自分の誕生日だけは祝ってもらおうとするんだろう??

 

パターンかもしれないですけど、いますよねこう言う人。

自分の誕生日には「祝ってピーアール」がすごいのに、

他人の誕生日は「お祝いしようね」とか言っといて有言実行せずスルーして平気な顔してくる人。

 

やばい思い出したら腸が煮えくり返ってきた…。

今思い出し苦しみに悶えているので、文章が散漫になってますがお許しください。

 

でも相手を変えても何度も誕生日をスルーされるのは、

心理学的には「私がそう仕向けている、私に原因がある」と言う考え方をするみたいです。

ここに向き合うのは本当に苦しくて、まだできてないです。

もう悲しみが深すぎて考えたくないレベル。

 

ただ、今うっすらわかるのは私も祝って欲しいなら

「祝って」ピーアールをしっかりしておくこと。

それからスルーされて死ぬほど嫌な気持ちだったなら

そんな相手をお祝いしてやる必要性はどこにもなかったこと。

 

「相手の誕生日を仕返しにスルーしたら、私も相手と同じレベルまで落ちちゃう」

とか「自分は祝われなかったとしても、相手も祝わないというのは人の道に反してる」

とか「嫌なことでも我慢してやらなきゃ。心が狭いと思われちゃう」とか、

そんなことを考えていました。

 

でも自分のことを大切にしてくれない人を、どうして人は大切にできるでしょう?

 

別れ一択だったと思うんです、そうされた時点で。

それでも一緒にいること、相手を祝うという選択をしたのは私。

また、相手に誕生日をスルーさせたのも私。

そういう薄情な奴、自分さえ良ければそれでいいやつ、

代替日出せないやつを選んだのも私だということでした。

 

この先の人生は、幸せで温かい誕生日を私も過ごしたい。

 

 

 

 

 

 

一人でできる克服方法を探して〜オススメ書籍の紹介〜

愛着障害だと気がついても「さてどうしたら良いだろう?」と壁にぶつかる。

なぜなら、私は人間関係が希薄なのでこんなことを相談する相手がいないからだ。

安全基地になってくれるような人も当然ながらいない。

私の周囲にいる人もまた不安定だったり、それぞれの生活があったり(多くはハードワークに依存して恋愛を回避しているので、恋バナを嫌がる人が多い)と、

同じような恋愛の苦しみを何度も何度も相談するのも心苦しく、一度軽く話した後は悶々とネットで解決方法を探す。

 

そしてああでもない、こうでもないと頭を悩ますのだけど、ずっと同じところを回転している閉塞感がつきまとう。

そのうち考えることも嫌になって忘れようとするが、数時間〜数日後には結局また同じ単語を検索し、同じブログを何度も読んだりと

「結局時間のムダじゃないか。私は一体何をやっているんだ??」と虚しさだけが募る。

 

 

そんな時ある書籍に出会った。

『傷つくならば、それは「愛」ではない』チャック・スペザーノ博士著 大空夢湧子訳

 

 

傷つくならば、それは「愛」ではない

傷つくならば、それは「愛」ではない

 

 

セルフカウンセリングの書籍であるが、愛着障害を克服するためのワークブックとして私は使っている。

この書籍は特別「愛着障害」を克服するための本、などと書いてあるわけではないが、ある程度「愛着障害とは何か」を独学し、セルフカウンセリングを自力で試みている人であれば、

この書籍が愛着障害発達障害の白黒思考、

「正しさ」を追求するあまり人間関係が破綻してしまいやすいものの考え方を

どうやって克服したら良いのかの知恵やヒントがたくさん詰まっている。

 

安全基地がなかったり、いわゆる定型の人が周りにいない、

カウンセリングや病院に行くのも時間や心理的に負担…、

そんな人はこの本を読んでみると良いと思う。

 

 

 

ただ、自分が自分の親になる、というプロセスはなかなかに苦しい。

私はこの本を読み実践している最中だが、夜に一人ベッドの上で身悶えし、

怒りや苦しみ、悲しみや屈辱感でのたうちまわり頭がおかしくなるんじゃないかと思うことが何度もあった。

そんな苦しい思いをしても、一人で死にそうになっていることは誰も知らない。

このブログを読んでくれてる人以外は、だけれどね。

 

なので、あまりに辛ければ一旦読むのをやめる。

実行するのもやめる。寝逃げする、ゲームする、また日々に戻っていく。

でも不思議なもので、少し落ち着いたり、

また新たな疑問や苦しみが襲ってきた時にこの書籍を読むと、

心がすっと楽になることに気がついた。

 

どこにも助けを求められない、

けれど愛着障害を克服したいと考えている方には、とてもおすすめの書籍です。

 

 

ADHDのAC

「私って人格障害かも」

「私って〇〇(病名)かも」と自ら病院を受診するのは、ADHDのACが多いという記事を読んだ。

私もこのタイプで、自ら病院を受診した。

まだこのことについては勉強中なので、忘れないようにメモ。

好きな歌を持つ

どうしても問題のある異性を好きになってしまう。

私は付き合うことに関する恐怖から

「いい感じの異性がいてもなぜか付き合わずに終わる」という状態を繰り返していた。

付き合うときはいつもボランティア感覚で相手のことを見下していることが多かった。

 

「こんな非常識でブサイクで馬鹿な男と付き合ってあげている私」

だったので、相手に何か要求されている(例えば「もっとメールの返事してよ」とか、「こういう服装にして」とか)と感じると

「は?何この私に要求してるの?身の程を知りなさいよ、図々しい」

と感じて相手に対して嫌悪感がわく。

 

時には●したいほどの憎悪があるにもかかわらず、

嫌だと言い出せなくて相手の要求にひたすら合わせてしまい、

合わせた分だけまた相手を憎み見下すということをしていた。

ただ、表面的には相手に「それは嫌だ」ということを言っていないので、

相手は私が心の中でマグマを噴出させていたことは知る由もない。

 

そうして相手の要求をどんどん飲んでいくと、当然ながら要求はもっとエスカレートする。

当然ながら私の爆発する時期がやってくる。

爆発イコール拒否なので、別れ、無視、拒絶する。

相手はなぜ私がこんな行動に出るのかはわからないまま終わる。

 

付き合いが終わった後に残るものは何もない。

付き合いが長かった割に、思い出も得るものも与えるものもない、ひたすら虚しい時間とお金の無駄だった問いう思いが湧き上がる。

 

私には理想の夫婦像、恋愛像というものがなかった。

だから相手に合わせて自分を押し殺し、変え、意見を言わない、甘えない。

その代わり相手は図々しい要求(私にはそう感じられる、なぜなら私は相手に何も望まないから)を繰り返しワガママになっていく。

そこに私が甘える余地はない。と勝手に感じて相手をひたすら嫌悪し見下していた。

そして見下している相手に奉仕しているようで、いつも屈辱を感じていた。

こうして見るとただの変態ドMである。

 

少しおかしな恋愛観を持っている人に対するカウンセリングで

「本当は自分はどんな恋愛をしたいのか、その理想を描いてみましょう」というものがあることを知った。

そんなことに何の意味が?と思ったが、私には理想の恋愛像や夫婦像などなかったことに気がついた。

でも自分で0から理想の恋愛を思い描くと、必ず自分が不幸で報われない恋愛像にしかならないので、自力でやることはやめようと思った。

さてどうしようか、と思った時、なんとなく音楽の世界に目を向けてみようと思った。

 

想像に難くないだろうが私は天野月とか昔のL'Arc〜en〜Cielとかブリグリとか、陰鬱で湿った暗い世界感の音楽が好きだった。

あとは宇多田ヒカルとか、鬼束ちひろとか、おそらく同じような苦しみを抱えていそうなアーティストがとにかく好きだった。

ネガティブで救いがなく、そこからの叫びみたいな音楽と歌詞に感情移入しやすい育ちがそうさせたと思う。

 

ある時、L'Arc〜en〜Cielが「瞳の住人」という曲を出した。

ラルクにしては珍しく幸せな歌だった。

その当時に聞いた時も好きだなと思ったが、なんとなくまた聞いてみることにした。

今聞いてもとても好きだと思う。

相手への愛情に溢れて、とても愛しく思っていることがありありと伝わってくる。

そんなまぶしい歌。

ああ、こんな風に想い想われるのっていいな。そう思った。

 

それを皮切りに私は幸せな恋愛を歌った曲を探し始めた。

そうするとどんな男性が良くてどんな恋愛がしたくて、本当はこういう風にしてもらいたかったということが見えてきた。

 

私の理想

三浦大知 「ふれあうだけで 〜Always with you〜」

Jamestown Story「cry」

JUJU「やさしさで溢れるように」

 

今からでも遅くない。こういう恋愛をしよう。