愛着障害を克服したいブログ

35歳から愛着障害の克服を目指す。そのための取り組みや日々の心情、役立ったことなどをつらつらと。

母への許し、手放し

インナーチャイルドを癒しましょうという言葉がある。

ネットで検索して見つけた時、変な宗教みたいで気持ち悪いと感じてしまい、そのままブラウザを閉じた。

しかしながら今その必要性に駆られ、苦しみから抜け出したいともがいた時に

「胡散臭くてもいいじゃない、とりあえずやってみようか。

今の状態から楽になれるならもうなんでもいい」

そんな気持ちが湧いてきたので、やってみることにした。

 

当然のように私の父母は毒親なので、過去の記憶を思い出しては「許せるはずなんてない」という思いが強かった。

向き合わなければいけないシーンを思い出しては怒りがこみ上げ、その度「絶対に許さない」と再度誓ったり、時にはここには書けないような恐ろしい衝動に駆られたこともあった。

毎日そんなことに向き合うことは辛かったので、できそうな時を見て繰り返し繰り返しやってみた。

そのたび挫折し、「また今日も許せなかった」ということも多くあった。

でも今日は不思議とできた。

 

私の母は幼児性が高く、女性的で過干渉、支配的であった。

小学生だった私に

「あんたが生まれてきた時の顔を見た時、女の子なのにお兄ちゃんにそっくりな一重でブサイクで可愛そうだと思った。

本当はマリアとかアリサとか、可愛らしい名前を考えていたけど顔を見て諦めて、今の名前をつけた」

などと平気で言ってくるような女性だった。

 

そんなことを言われて育った私は立派に容姿コンプレックスを抱えたのは言うまでもない。

奥二重がイヤでどうにかして二重になりたくて、夜寝る時に安全ピンやヘアピンをまぶたに貼り付けて寝ていた。

今ふと思い出したが父親には「母親にそっくりなブタ鼻だな」と言われていたので

鼻を洗濯バサミで挟んで寝るということもしていた。

母も父も私の容姿に対して辛辣であった。

容姿批判のたびに傷心。

私はなんてブサイクなんだろうと死にたい思いに駆られていたので、好きになる異性はいつもパッチリとした二重で鼻のシュッと整った美形のイケメンだった。

塩顔のイケメンとか意味がわからなかったのはこのせいだったのかと、今この記事を書いている時に初めて気がついた!oh!なんてこと!

 

少し脱線したが、そんな所から一つだけ良いところを見つけた。

それは母がつけた私の名前だ。

初対面の人に本名を名乗ると

「良い名前ですね」とか「素敵なお名前ですね」と言われる。

 

10人中10人がそう言うんじゃないかと言うほど、そう言われるので

おそらく私の容姿とこの名前が相当マッチしているのだろうと思う。

残念な容姿の子供にやたらときらびやかな名がついていたとしたら、

容姿と名前のギャップから、このように言ってはもらえなかっただろうと思うから。

 ※あくまで個人の見解で、ただ私個人に向けて書いています。

 

ありがとう、お母さん。

私がブサイクな容姿に生まれたことをすぐに見抜き、

自分の欲望に走らずマリアとかアリサとか付けず

私のために新しく似合いそうな名前を考えてくれて。

そしてあなたのセンスに感謝します。

素敵な名前を考えてくれてありがとう。

 

そして、あなたの冷静で客観的なものの見方は私にも受け継がれているようです。

 こうして自分を省みる力が、私にもありました。

 

愛着障害だと気づく

ずっと生きにくさを抱えていた。

その原因が愛着障害から来るものでは?と30代も半ばになってようやく気づく。

 

なんで私は好きな人とうまくいかないのだろう?

好きな人にある程度まで好かれるような状態、

お互いになんとなく好意があると感じられる段階に来ると、無性に逃げたくなる。

 

「まさか彼が私を好きなわけがない。」

「こんな私を、あんなに素敵な彼が選ぶわけがない。」

そう思うと

「勘違いしてはいけない、私には愛される価値などない」

「この人は私を利用しようとしている」

 

「そんなに簡単に私に好意を向けないで。私を信じないで。

私はそんなに良い人間じゃない。私はきっとあなたを裏切る。傷つける。

だってそんなに簡単に、純粋に私という人間を信じてしまうあなたを、

私は心のどこかで見下しているのだから。

そしてそれに気づかないあなたを、浅はかだと思っている。

そんな私は汚い人間だ」

こんな気持ちが湧き出してくる。

 

だから、好きな人から逃げてしまう。
向けられた好意を素直に受け取れなくて、相手を傷つけてしまう。

 

一人は嫌だと思っても、誰かと一緒にいる術がわからない。

だから苦しい。誰か私と一緒にいて。

でも私は一緒にいてくれようとする、優しい誰かを傷つけてしまう。

側にいて、離れないで。でも、近づきすぎるのは怖い。

そんな矛盾した気持ちを抱えたまま、新しい人間関係に向かっていく。

 

 

 広く浅く知り合って間もない頃や、距離がある頃はとても上手くいく。

明るく楽しくお互いを傷つけずにいられる。

でも相手がある一定を越えようとしていると気づくと、得も言われえぬ不快感を感じてしまう。

「あなたと私はそんな仲じゃないでしょ?近寄らないで」

そんな気持ちが湧き上がり、大幅に距離を取ってしまう。

そうするとそれを察した相手は少し距離を取ってくれる。

 

寂しそうに笑いながら

「changeと仲良くしたいけど、線を引かれているって感じる。

薄い壁があるみたいで近寄れないね」

そんなことを言わせてしまう。

 

こうして傷つけて遠ざけて、去っていく後ろ姿を見送る。

でも本当は寂しくて、別れたくなくて、戻ってきてほしい。

でもそれは私のワガママだから言えない。

 

自分が悪いとは思いつつも、でも相手も悪いんだという気持ちが湧いてくる。

こんなことを言ってくる相手は図々しい人。傲慢な人。ワガママな人だと。

 

人と人とは距離があるのが当たり前。

こちらの思いやりも知らずにズケズケと言いたいことを言って、

傍若無人に振る舞う相手が悪い。

「人を傷つけないように振舞っている私は悪くない、悪いのはあなた」

そんな風に思っていた。

 

気がつけば恋愛に限らず、人間関係がいつも同じところで破綻していた。

長期的な友人関係が築けない。親友というものがなかなか作れない。

心を開いて話ができるのは、20年来の友人一人だけ。

寂しさは埋まらない。他の人はみんなと仲良く楽しそう。

私はこんなに頑張っているのに、その輪にはいつも入れない。

 

 

でも。
そろそろいいんじゃないか。
いいかげん、この苦しみから抜け出したい。

 

 

でも35年の間、あらゆる人間関係で同じことを繰り返していた。

それは他ならぬ自分に問題があったんだ。

相手が私を避けているのではなく、私が心を開いていなかったんだ。

避けていたのは私の方だったんだ。

そんな簡単なことに気がつくのに、35年もかかってしまった。

 

それから必死でネットや書籍を読み漁り、愛着障害と言うものを知った。

回避依存、恋愛依存、共依存、パーソナリティー障害、自分のことを調べるたび、そんな言葉に行き当たる。

 

ああ、私はこれだったんだ。

 

ようやくたどり着いた瞬間だった。