愛着障害を克服したいブログ

35歳から愛着障害の克服を目指す。そのための取り組みや日々の心情、役立ったことなどをつらつらと。

素敵なものを買ったけど、すぐに埃まみれにしてしまう

こんにちは。閲覧ありがとうございます。

このブログを開始するにあたり「こんなこと書いていいのだろうか」とか、

「誰も見てくれないんじゃないか」とかネガティブなことばかり考えていましたが、

それも全て私の杞憂に終わっています。

どういう経緯でたどり着かれたかはわかりませんが、記事を読んでくださってありがとうございます。

 

このブログにたどり着いた方はもしかしたら今、苦しみの真っ最中にいるのかもしれません。

さて、今回の記事タイトルですがこんな風に感じたことはないでしょうか?

 

・雑誌やネットで見た素敵な服、バッグ、アクセサリー。

 すごく欲しくて欲しくて、自分にとってはちょっと高い買い物なんだけれど。

 でも…いつも頑張ってるし「買ってもいいよね?」なんて思いながら

 思い切って購入!

・商品が手元に届いて、大切に使うぞ!なんて思いながらワクワクする気分が湧き上がってくる。

・だけれど、何日かすれば喉から手が出るほどほしかったあの商品のはずなのに、

部屋の片隅に埃をかぶって放置されている。

 

・あんなに欲しくて欲しくてたまらなかったのに、

その商品を見てワクワクドキドキした気持ちだって本物なのに、

どうして私は大切にできないんだろう?

 

そんな風に思った経験はありませんか?

 

 

私は、めちゃくちゃあります(笑)

35歳を迎えたし、そろそろ身につけるものは「ホンモノ」がいいな、なんて思って

質にこだわり、商品のレビューとかもめちゃくちゃ検索しまくって欠点のない、

誰もが認めるような「ホンモノ買い」をするわけです。

 

すっごく小さくて何も入らないようなバッグに5万円かけちゃったり。

なんだたったの5万?100万くらいするやつかと思った〜、と思う人と、

そんな小さいバッグに5万も?コイツ馬鹿じゃね?と思う人と、

ああ〜、わかるわかる、そういう失敗あるよね〜と思う人と、

それぞれいらっしゃると思いますが、私には高い買い物でした。

 

で、そんな感じで「お高いホンモノ」を買ったつもりでいた私ですが、

そのバッグが今どうしているかというと、あまり出番がなくクローゼットの片隅にひっそりと置かれています。

革製品なので一月に一回くらいお手入れをしなくちゃな〜とは思うのですが、

めんどうくさいという気持ちが勝ってしまい、それもできていません。

 

で、ここからが本題なのですが、「なんでそうなっちゃうの?」ってことです。

これは、実はモノだけに限らず

「なんでもできるミスターパーフェクトみたいな彼/彼女なのに、

どうしてだか大切にできない」とか(←これは極端な例ですけど)そういったことにも繋がっていくわけです。

こういう感情を感じてしまうと

「あんなに好きで大切にしたいと思った人なのに、一緒にいると傷つけてしまう」とか、

「大切にできない自分といるより、彼/彼女にはもっとふさわしい人がいるんじゃないか」とか、とにかく

「自分はダメなやつなんだ」

「自分は相手にふさわしくない」

「自分では相手を愛してあげられない」

などといった自分を攻撃する心理が働きはじめます。

 

その奥深くを探っていくと「罪悪感」とか「無価値観」とか、めちゃくちゃ目を背けたくなるような感情が眠っていたりします。

それは元根を見ると「私は愛される存在であるはずがない」とか「ここにいてはいけない」とか

「私は幸せになってはいけない」とかそう言った潜在意識が刷り込まれているようです。

 

だから素敵なものを買っても「私は幸せになってはいけない」ので、

それを身につけてファッションを楽しんだりすることを自分に許しません。

その結果、素敵なバッグは埃まみれでクローゼットの中にしまわれたまま日の目を見る機会が訪れないばかりか、

それを身につけた素敵な自分も世の中に出さないまま、

いつまでもちっぽけな自分でいさせます。

 

また、素敵な彼や彼女なんて手に入れてしまったら

「私は愛される存在であるはずがない」のだから、

彼/彼女に自分を愛させることを許しません。

だから彼/彼女に愛されないように傷つけるような行動をしてしまったり、

わざと冷たくしたり、試し行為をし捲くって結果嫌われる…もとい、相手に自分を嫌わせて愛させないように愛させないようにしてしまうわけです。

そしていつも「誰にも愛されない私」でいさせるわけです。

ほかならぬ自分自身が、そうしているのですね。

 

 

 

 

なんだか、すごく悲しいですよね。

でも、どうして「自分は幸せになってはいけない」「私なんか愛されるわけがない」なんて思ってしまうようになったのでしょうか。

少し考えてみてください。

 

答えは人それぞれだと思うのですが、やはり私の場合は幼少期の家庭環境にあります。

母親に「私はあなたを産まなくても良かった。でもお父さんがどうしてもって言うから産んであげた。」とか

「あなたには私の愛情は必要ない。

だってお父さんがそのぶん可愛がってくれてるでしょ」とか言われていました。

 

子供相手に、しかも本人に言うことかよ…とその当時も思っていましたが、

そういう母親でしたので一緒にいる間は常にそう言った類の言動をされていました。

これが産まれてから25年くらい続いていましたので、

当然私は「ああ私って愛されていないんだ(うっすら知ってたけど認めるの辛すぎ)」から

「私は当然、愛されるわけがない(確定)」に進んでいくのは自然の摂理ですね。

 

 

今はだいぶ母から離れ、私の精神も大人になっているので「この人はクソくだらないBBAだな〜。ツンデレだし子供じみてるし幼女かよ〜(愛)」くらい思えるようになりました。

(でもここに辿りつくにはキチンとした「怒り」や「怨み」を感じ、親に逆らい詰りいたぶるステップが必要です。

「本当は許せないようなひどいことをされたのに、無理やり許そうと頑張ってしまっているけど、やっぱり全然許せない。許せないことが苦しい」という場合は

かえって自分を苦しめる状況に追いやってしまうこともありますので思いつめないようにした方が良いと思います。)

 

私の母は、母になつかない私が可愛いと思えなかったし、(なつけない原因を作っているのは母なのですが;苦笑)

でも自分の子供だから愛さなくちゃいけないし、

かといって母の性格も素直じゃないから、どうやって私に接していいかわからなかったんだと思います。

 

そして、こうやって客観的に「自分は愛される存在ではない」という原因になって人や物事、出来事を見つめていくと、あることに気がつくわけです。

ここまで読んだ方、お気付きですか?

 

まず一つは

「私が愛されなかった」のは「母から」だけである。

つまり、「他の人からは十分に愛される存在である」とも思えますよね。

だから赤の他人である彼や彼女は、私(や、このブログを読んでいるあなた)を十分に愛してくれる存在であると思えるわけです。

それが相手を「信頼」することにつながりますし、「私は愛される存在である」と自己肯定感を高めることもできます。

 

また賢い方はもうお気づきでしょうが、上の解釈でも良いとは思うのですが、

この体験談からわかるのは「私は母から愛されなかった」と感じている「私」の経験にすぎません。

実は本当は「母が私をどう思っていたのか」はわからないのです。

体験の後半部分に「しょうもないツンデレ幼女BBAだな〜」と私は書きました。

大人になってから母親の置かれた状況を見てみると、幼い私にそう言った八つ当たりをすることも理解はできるのです。子供にやっていいこととは思いませんが、そういうことをせずにはいられない精神状況だったのだと思います。

 

絶対ダメだし、言葉や態度で子供を傷つけるのは許せない部分です。

でも「むしゃくしゃしてやった。今では反省している」という言葉があるように、

「あんたなんか嫌い!私と仲良くしてくれないあんたなんか好きじゃないんだからねっ!」と、お友達と喧嘩をしてしまった小学校5年せいくらいの女の子がいたとします。

でも本当に心のそこからお友達のことを嫌いになったわけじゃない。

でも素直になれないから仲直りの仕方がわからない。

だから、本当はごめんねって言いたいのに言えなくて、こんな風に言ってしまう。

「あの時はああ言っちゃったけど、〇〇ちゃんだって悪いんだからね!

でもだからといって私はあなたのすべてが嫌いになったわけじゃないんだからねっ!だから無視しないでよ!明日っからまた仲良くしてあげたっていいんだからね!(だから離れていかないで)」

 

お分りいただけるだろうか。

愛着障害のある方、ツンデレだったり好き避けしてしまったりする方が多いと思うので、このなんとも言えない、だけどわかってほしいみたいな気持ちはなんとなくご理解いただけるのではないかと思います。

 

母親を立派な大人で、太刀打ちできない強大な存在であるとみなし、

その上で自分は無価値で愛されない矮小な存在であると感じていると、

母親の幼稚さに気づかす、一方的に「自分が悪くて、愛されなくて、無価値な存在である」と思ってしまいます。(事実こどもだから仕方がないのですが)

 

ですが起きた事実、言われた言葉、それを大人になった自分が掘り返してみると、

違う一面が見えたりします。

そして、誰かの感情や状況は本当に人それぞれであり、その真意を知ることはできないということもわかります。

 

だから私は好き勝手に解釈をつけることにしました。

母から言われてショックだったこと。それにより「私は愛されるべき存在ではない」と思い込んでしまったこと。

だけどそれは私が子供だったからそう感じてしまっただけで、違う解釈もつけることができること。

 

そうした時に私はこういう解釈を自分につけてあげました。

「子供の頃の私は母にあんな事言われてショックで、とても深く傷ついちゃって、

その言葉を頑なに信じちゃって、しかも大人になるまで引きずっちゃって、

恋愛でもうまくいかなくって、人間関係も失敗しまくっちゃってたけど、

今ならわかる。

 

私は、母の言った言葉を頑なに守ろうとしたんだ。

だってお母さんに愛されたいもの。

だからお母さんの言う通り「愛されない私」でいる事にしよう。

そうしたらお母さん、きっと私を愛してくれるよね?

だってお母さんの望み通り、頑張って「愛されない私」でいるから。

彼氏?そんなのいらないよ。お母さんに愛してほしいの。

だから頑張って幸せにならない相手を見つけたよ?

どう?お母さん気に入ってくれるかなぁ?

ああ、またダメだった。

どうして私はお母さんの期待に応えられないんだろう。

私って悪い子!でも、悪い子でいいよね。

だって「悪い子」をやめたら「愛される私」になっちゃうし、

そうしたらお母さんの好きな「愛されない私」がいなくなっちゃうもんね!

 

こんなふうにして、私は母親の価値観や世界観を守ってきたんだな〜。

私ってなんて優しい子なんだろう!

こんな優しい子、みんな好きになっちゃうよね!

母親の一瞬の気分で八つ当たりして言った言葉を、こんなに大人になるまで厳しく守っていたなんて、やるじゃん私!すごい誠実な性格だよ!

一途だし一生懸命相手に合わせてあげて、精神的に大人だしすごく偉かったよね!

なんて愛情に溢れて優しくて誠実な人だろう!」

 

ちょっとアホっぽいですか?

おバカさんでしょうか?

でも、それでいいのだ!(天才バカボン)と、これまで頑張ってきた自分を認めてあげることにしています。

 

そうやって頑張り屋さんで一生懸命で誠実で優しくて可愛い私は、

埃にまみれたカバンを今どうしていると思いますか?

私と同じくらい、私のことを一生懸命愛そうとしてくれる彼や彼女と、

この先どうなっていくでしょうか?

ここまで読んで、どんなストーリーが浮かびますか?

 

 

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ちょっと綺麗にまとまりすぎている感はありますが(笑)

少なくとも今の私は埃をかぶるようなカバンは選ばなくなりました。

それは「自分で自分がわかりはじめた」マイレボリューションでもありますし、

そうすると「私は何が好きで、何が嫌いか」が明白になってきます。

 

そうすると、人間関係も少しずつ変わってきます。

「こいつなんか変なんだけど、まいっか〜」とか

「あんまり好きな人じゃないけど、私を必要としてくれるから付き合っておくか」とか

「めっちゃデリカシーのないこと言ったりマウンティングしまくってきてムカつくんだけど、でもとりあえず友達でいよっかな〜他にいないしな〜」

とかいうことがなくなってきます。

 

だって「素敵な私」に、わざわざそんな人を与えて傷つけたいと思わないですから。

イヤな縁を断ち切ることができてきます。

断ち切るにもいろいろあり、バッサリ一切合切連絡取らない、

挨拶もしないというものからそこそこの距離を取りながら、当たり障りなく接するという切り方もありますので、

その辺りはご本人様の性格や考え方でおのおのやりやすい方法を選ぶと良いと思います。

 

※人間関係をバッサリ切ってしまって、どうしようかうろたえる自分が見えるなら

バッサリ切る方法があなたに合っていないだけですから、

自分の心が望むことを自分で叶えてあげてください。

 

 

いきなり人間関係で「素敵な私に似合う人はどれかな」なんて選別はできないと思うので、まずはスーパーの買いものなどで品物を選ぶときに少し意識して自分の気持ちに向き合ってみると良いと思います。

ガム一つ、コーヒー一つ選ぶのにも自分に問いかけます。

本当は「プッチンプリンが食べたいな〜」と思っているのに、

見栄を張ってジャージー牛乳プリンを買ってしまわないように!

その逆で本当はジャージー牛乳プリンが食べたいのに「安いからプッチンプリンにしとくか」とジャージー牛乳プリンを棚に戻さないでください。(私はこっち派)

ただし、「今月はお金がちょっとピンチだから、

プリンはプッチンにするんだ〜!」と自分で選んで決めたのなら

プッチンプリンを選んだ自分を褒めてあげましょう!(笑)

 

本当に些細で、ちょっとおバカで、でも簡単な方法です。

素敵だと感じるものは、自分がそう思うから素敵なのです。

他人の価値観ではあなたの物事は決まらないのです。

だって心では「なんか違う」って思っていますし、知っていますから。

自分が本当に欲しいものが何なのか。

 

 

過干渉な親や兄弟がいて、自分の意思や意見を持たないようにさせられていた方の場合、本当に欲しいものがわからないということは頻繁に起こると思います。

それは仕事だったり恋愛だったり、日々の生活だったりその日食べるものだったり、本当に色々な場面で出てきます。だって人生は選択の連続ですからね。

何がしたいか、何が欲しいか、自分がわからないというのは大変苦しい状況なわけです。

 

なので世間が素敵だと思っているものを買っても埃まみれにしてしまったり、

人様の旦那や奥さんや彼や彼女が素敵に見えて、横取りしようとしてしまうのです。

自分の価値基準が自分でわかっていない、

分かっていても自信が持てないので

「誰かがいいと思ったもの」に追随しようとしてしまうんですね。

 

でもそうやって選んだものは、本来の自分が欲しいと思ったものではないもののことも多いので結果的に埃まみれにしてしまったり、

人妻なのに惚れ込んで不倫したくせに「ごめん、そんなに好きじゃなかった」と言って人間関係を破綻させたりしてしまうのです。

 

自分で決めて選んでいると思っているバッグや彼や彼女なわけですが。

(ものと人を一緒くたに語ってすみません)

それ、本当に自分で決めて選んでる?

誰かの基準を満たすから選んでる、何てことはないか?

振り返ってみることは大切です。

 

例えば、ほら。

いつもあなたの意思に干渉して奪ってきて、あなたに価値観を植え付けようとした

あなたのお母さんが気に入りそうなモノや人を、無意識に選んでいたりはしませんか?

 

気づいたら、やめましょう。

自分で選びましょう。好きなものに、理由はいりません。

あなたの感覚、感性で、これが好き!というものをたくさん見つけていきましょう。

人も、モノも。

あなたが大好きだと思えるものを感じてみてください。

 

 

ちょっと脱線が多かったですが、最後まで読んでくださってありがとうございました。