愛着障害を克服したいブログ

35歳から愛着障害の克服を目指す。そのための取り組みや日々の心情、役立ったことなどをつらつらと。

親への依存の手放し方

こんばんは。

外に出ると風が冷たく、寒さが身にしみる季節になりましたね。

一般的に秋から冬にかけて「人肌恋しい季節」と言ったりするようですが、

私は愛着障害にどっぷり浸かっている時はこの「寂しさ」を感じることはありませんでした。

なんでかと言えば、常に親や兄弟、友達、彼氏(いれば)と癒着していたからです。

愛着障害はとても苦しい時もありますが、誰かにベットリ依存し、執着し、

干渉し干渉され合っている間は寂しさなど感じる隙間もありませんから、

究極の寂しさ防止法でもあるわけです。

 

こんな視点から見ていくと、あなたを愛着障害にしてしまった根源的な存在の人…

つまりあなたの親だったり恋人だったり友人だったりする人もまた、

言い知れぬ寂しさを感じたくなくてあなたを支配し、コントロールし、干渉し、

執着しまくっていたのかもしれませんね。ということが見えてきたりします。

 

そうすると、そういう寂しくて自力で自分の問題を解決することができないその人の姿が見えてきたりします。

夫婦仲がうまくいってなくて、どうにかしたいと思っていても妻や夫とうまくいかない。

友人もあまりいないし、相談しても「あなたが悪い」とか言われて否定され誰も理解してくれない。

そういう存在の人はじゃあ誰に頼るのかと言えば、自分の子供に頼るのです。

だってこの人は孤独ですから、他に頼るところがありません。

しかも自分の弱みを見せても自分を否定しない存在を求めていますから、

自分の子供という存在は実に都合がいいわけです。

 

子供はどんな状況にあれ、自分の親が好きですし、親に嫌われたら生きていけないということが本能的にありますからどんなクズ親であろうが愛そうと努力してくれます。

こういう何も知らないいたいけな存在に、自分の夫や妻の代わりを押し付け、

同年代の友人の代わりを押し付け、子供を子供として愛することも忘れ、

自分が子供からひたすらひたむきで一途な愛情を受けようと、愛情の搾取を行います。

 

それが、あなたの親です。

もしくは、今のあなた自身です。

 

こうやって見ていくとなんとまあ、

自分の親(恋人、友人、自分自身)は、どクズな人間なんだろう!と絶望したりしたでしょうか?

でもこの絶望は愛着障害から抜け出すには必要な過程です。

残念ながら、ごくごく普通の愛情を持ってすくすく育った人と私たちは

少し違った性質を持って育つこととなってしまいました。

 

普通の人は知らない感情、知らない環境、心理的な苦痛、虐待、肉体的苦痛、

そんなものがあなたの人生の中にあったわけです。

起きたことは変えられませんから、そこからどうするのか?ということがいつも大切になってきます。

ただ、この絶望感のいいところは「自分の育った環境はどうやら普通とは少し違うようだ」という客観的な視点をもたらしてくれるところです。

 

あなたの愛着障害の原因となった人は、まあ多かれ少なかれその人自身も自覚のない愛着障害の人です。

だから、子供の頃の私たちが求めていた親からのまっすぐな愛情、

なんてものはこの人からはもらえないということがわかってきます。

 

親に依存している状態というのは、ぶつくさ親に文句を言いながらも親の愛情を求める子供の自分を手放せず、いつまでも親のいいなりになっていたりする状態をいいます。

 

どういうことかと言えば、私の友人にこんな人がいます。

その人も私と同世代なので30代半ば、仕事は順調で一般的な方よりも稼ぎが良いです。

この人は親からの過干渉に苦しみ、兄弟間の愛情格差に苦しみ、ぞんざいに扱われて家庭には居場所がありません。

兄弟間でいわゆる搾取子と愛玩子の関係があり、搾取子の立場にいます。

ある時この人は家族からのぞんざいな扱いに耐えられず、一念発起して家を出て一人暮らしを始めました。

そこで好きなものを好きなだけ楽しみ、

今まで何をするにも家族の目を気にしていたところに

夜中に起きて夜食を食べたり、好きな漫画を買って好きな時に読むという「自由」を手にしました。

側から見ればすごく些細な幸福…もしかしたら「そんなの普通じゃん?」と人によっては幸福とすら思わないようなことですら、

この人にとっては幸せな出来事だったわけです。

 

そうして自由で自分だけの空間を手に入れた後、この人は家を買いました。

他ならぬ母のために。(と、本人は言っていました)

そしてまた、重苦しく、自分をぞんざいに扱う親と兄弟との生活をスタートさせました。

この人は私によく愚痴ります。

「一人暮らししたい」と。

「母も兄弟も、私をないがしろにして家に居場所がない」と。

「母は妹には用事を言いつけないのに、私には何くれと無理難題を押し付けてくる」と。

 

この人の話題の中心は、親と兄弟の愚痴ですが、皆さんはこの人をどう思うでしょうか。

可哀想にと同情しますか?それとも私も同じだ、と共感しますか?

 

はっきり申し上げてしまえば、この人の陥っている状態は親と兄弟への依存です。

親と兄弟に「私を愛して!」と心で叫んでいるわけです。返されるはずのない愛情をいつまでも望んでいるんですね。悲しいことです。

 

親にぞんざいに扱われるのが嫌ならば断ればいいのです。

一緒にいて居場所がないのなら離れて暮らせば良いのです。

自分にばかり用事を押し付けられるのなら、断固として断れば良いのです。

そしてついでに妹にやらせてとでも言えばいいのです。

 

でも、いつまでもそれをせず、親と兄弟にしがみついて「自分は辛い、苦しい」と言っているわけですね。

親と兄弟が自分のために変わってくれることをひたすら待っているだけなのです。

待っても無駄なのに。

 

本人が変わらなければ、相手も変わるわけありません。

「それは嫌だ」と言わなければわからない相手なのに、

断って嫌われたり疎まれたりするのが嫌で言い出せないのです。

それなのに相手に察して欲しいといつまでも望んで、いつまでも変わらない状況に身を置き続けているのです。

 

多分この人は、一生こうやって生きていくのだと思います。

私はこの方とは違う価値観を持っているので、このような生き方を自分がするとしたら嫌だなと思うのですが、でもこの生き方を選んでいるのはこの人なわけですから、

何も言いようがありません。

この方は経済力もあり行動力もあり聡明な方ですから、

やろうと思えばいつだって親兄弟から離れて生きていけます。

ただ、選択肢が自分の手の中にあるのにそれを見ようとせず、

(もしくは見えない状態にいるのかもしれません)

また、見えてはいるけれども好きでこの生き方を選んでいるとも言えますね。

 

まあ、依存の状態にある時は大抵後者です。

自分がこの道を選んでいるんです。

それを誰かのせいにして悲劇のヒロインになるのがおかしな話なのですね。

 

さて。

少しは見えてきたでしょうか?

親への依存というのは、一見わからない人も多いです。

ぐちぐち言いながら親の世話していたり、いいなりになっている場合は十中八九

親へ依存しています。

そして本人はそのことに気づいていないのです。たちが悪いですね。

 

そういうわけで、親への執着心をどうやって手放せばいいのかと言えば、

冒頭で述べたようにあなたの親は一般的な人とは違うのだから、

そういう愛情を返して欲しいという期待を持つことをやめましょう、ということです。

 

だって、くれるような人じゃないでしょ?

それを認めましょうよ、と言うことです。

 

まあ勘違いしてはいけないのは親からの愛情がまったくない、

ということではなくて(ない場合もあるとは思いますが)

「あなたの望んでいるような愛情の形では返してくれない人です」ということを、

そろそろ分かろうや、と言うことです。

過干渉とかコントロールとか、いらん愛情はかけてくる人です、と言うことです。

あなたを愛着障害たらしめた人は、いろいろと、大人として残念な人なのです。

と言うことがわかってくれば、すごく楽になります。

 

子供の視点で親を見るから

「愛してくれなかったなんて酷い!よく子供にこんなことできるな!」と怒りや恨みが湧いてきます。

ですが私達はもう大人です。

大人として自分の親(や恋人や友人)を対等の立場で見た時、

「うわあ〜。過干渉やコントロールでしか人と関われないなんて。。残念な人だなあ。

めんどくさいから極力関わらないことにしておこう。」(※仲良くなりたければそうすればいいですよ。ここは人それぞれです)

とか思ったりするわけです。

 

そうすると嫌なことを押し付けられてるな、と思ったら

断ったり、他の兄弟に変わってもらったり、そもそもこちらに干渉してこないように線を引いて付き合ったりすることができるわけです。

こういったところまで来られると、親への依存心はほぼ手放せたと思って良いと思います。

 

また、誤解して欲しくないのは手放しの方法はいろいろあると言うことです。

私の場合はもう関わることが面倒になった人は家族だろうが友人だろうが

距離をとることにしているのですが、

「もう!しょうがないんだから!」と言ってお世話を焼いてあげたりする、

そういう関わり方を自分がしていこう!と思う人はそうすることがその人なりの依存心の手放し、ということになっていきます。

大切なのは、受け身の被害者、悲劇のヒロインにならないことです。

どんなに嫌な状況、環境、人間関係であっても、そうするところを選んでいて、

そういう関わり方を選んでいるのは自分自身である、という大人としての自覚を持って人と関わる、ということですね。