愛着障害を克服したいブログ

35歳から愛着障害の克服を目指す。そのための取り組みや日々の心情、役立ったことなどをつらつらと。

素敵なものを買ったけど、すぐに埃まみれにしてしまう

こんにちは。閲覧ありがとうございます。

このブログを開始するにあたり「こんなこと書いていいのだろうか」とか、

「誰も見てくれないんじゃないか」とかネガティブなことばかり考えていましたが、

それも全て私の杞憂に終わっています。

どういう経緯でたどり着かれたかはわかりませんが、記事を読んでくださってありがとうございます。

 

このブログにたどり着いた方はもしかしたら今、苦しみの真っ最中にいるのかもしれません。

さて、今回の記事タイトルですがこんな風に感じたことはないでしょうか?

 

・雑誌やネットで見た素敵な服、バッグ、アクセサリー。

 すごく欲しくて欲しくて、自分にとってはちょっと高い買い物なんだけれど。

 でも…いつも頑張ってるし「買ってもいいよね?」なんて思いながら

 思い切って購入!

・商品が手元に届いて、大切に使うぞ!なんて思いながらワクワクする気分が湧き上がってくる。

・だけれど、何日かすれば喉から手が出るほどほしかったあの商品のはずなのに、

部屋の片隅に埃をかぶって放置されている。

 

・あんなに欲しくて欲しくてたまらなかったのに、

その商品を見てワクワクドキドキした気持ちだって本物なのに、

どうして私は大切にできないんだろう?

 

そんな風に思った経験はありませんか?

 

 

私は、めちゃくちゃあります(笑)

35歳を迎えたし、そろそろ身につけるものは「ホンモノ」がいいな、なんて思って

質にこだわり、商品のレビューとかもめちゃくちゃ検索しまくって欠点のない、

誰もが認めるような「ホンモノ買い」をするわけです。

 

すっごく小さくて何も入らないようなバッグに5万円かけちゃったり。

なんだたったの5万?100万くらいするやつかと思った〜、と思う人と、

そんな小さいバッグに5万も?コイツ馬鹿じゃね?と思う人と、

ああ〜、わかるわかる、そういう失敗あるよね〜と思う人と、

それぞれいらっしゃると思いますが、私には高い買い物でした。

 

で、そんな感じで「お高いホンモノ」を買ったつもりでいた私ですが、

そのバッグが今どうしているかというと、あまり出番がなくクローゼットの片隅にひっそりと置かれています。

革製品なので一月に一回くらいお手入れをしなくちゃな〜とは思うのですが、

めんどうくさいという気持ちが勝ってしまい、それもできていません。

 

で、ここからが本題なのですが、「なんでそうなっちゃうの?」ってことです。

これは、実はモノだけに限らず

「なんでもできるミスターパーフェクトみたいな彼/彼女なのに、

どうしてだか大切にできない」とか(←これは極端な例ですけど)そういったことにも繋がっていくわけです。

こういう感情を感じてしまうと

「あんなに好きで大切にしたいと思った人なのに、一緒にいると傷つけてしまう」とか、

「大切にできない自分といるより、彼/彼女にはもっとふさわしい人がいるんじゃないか」とか、とにかく

「自分はダメなやつなんだ」

「自分は相手にふさわしくない」

「自分では相手を愛してあげられない」

などといった自分を攻撃する心理が働きはじめます。

 

その奥深くを探っていくと「罪悪感」とか「無価値観」とか、めちゃくちゃ目を背けたくなるような感情が眠っていたりします。

それは元根を見ると「私は愛される存在であるはずがない」とか「ここにいてはいけない」とか

「私は幸せになってはいけない」とかそう言った潜在意識が刷り込まれているようです。

 

だから素敵なものを買っても「私は幸せになってはいけない」ので、

それを身につけてファッションを楽しんだりすることを自分に許しません。

その結果、素敵なバッグは埃まみれでクローゼットの中にしまわれたまま日の目を見る機会が訪れないばかりか、

それを身につけた素敵な自分も世の中に出さないまま、

いつまでもちっぽけな自分でいさせます。

 

また、素敵な彼や彼女なんて手に入れてしまったら

「私は愛される存在であるはずがない」のだから、

彼/彼女に自分を愛させることを許しません。

だから彼/彼女に愛されないように傷つけるような行動をしてしまったり、

わざと冷たくしたり、試し行為をし捲くって結果嫌われる…もとい、相手に自分を嫌わせて愛させないように愛させないようにしてしまうわけです。

そしていつも「誰にも愛されない私」でいさせるわけです。

ほかならぬ自分自身が、そうしているのですね。

 

 

 

 

なんだか、すごく悲しいですよね。

でも、どうして「自分は幸せになってはいけない」「私なんか愛されるわけがない」なんて思ってしまうようになったのでしょうか。

少し考えてみてください。

 

答えは人それぞれだと思うのですが、やはり私の場合は幼少期の家庭環境にあります。

母親に「私はあなたを産まなくても良かった。でもお父さんがどうしてもって言うから産んであげた。」とか

「あなたには私の愛情は必要ない。

だってお父さんがそのぶん可愛がってくれてるでしょ」とか言われていました。

 

子供相手に、しかも本人に言うことかよ…とその当時も思っていましたが、

そういう母親でしたので一緒にいる間は常にそう言った類の言動をされていました。

これが産まれてから25年くらい続いていましたので、

当然私は「ああ私って愛されていないんだ(うっすら知ってたけど認めるの辛すぎ)」から

「私は当然、愛されるわけがない(確定)」に進んでいくのは自然の摂理ですね。

 

 

今はだいぶ母から離れ、私の精神も大人になっているので「この人はクソくだらないBBAだな〜。ツンデレだし子供じみてるし幼女かよ〜(愛)」くらい思えるようになりました。

(でもここに辿りつくにはキチンとした「怒り」や「怨み」を感じ、親に逆らい詰りいたぶるステップが必要です。

「本当は許せないようなひどいことをされたのに、無理やり許そうと頑張ってしまっているけど、やっぱり全然許せない。許せないことが苦しい」という場合は

かえって自分を苦しめる状況に追いやってしまうこともありますので思いつめないようにした方が良いと思います。)

 

私の母は、母になつかない私が可愛いと思えなかったし、(なつけない原因を作っているのは母なのですが;苦笑)

でも自分の子供だから愛さなくちゃいけないし、

かといって母の性格も素直じゃないから、どうやって私に接していいかわからなかったんだと思います。

 

そして、こうやって客観的に「自分は愛される存在ではない」という原因になって人や物事、出来事を見つめていくと、あることに気がつくわけです。

ここまで読んだ方、お気付きですか?

 

まず一つは

「私が愛されなかった」のは「母から」だけである。

つまり、「他の人からは十分に愛される存在である」とも思えますよね。

だから赤の他人である彼や彼女は、私(や、このブログを読んでいるあなた)を十分に愛してくれる存在であると思えるわけです。

それが相手を「信頼」することにつながりますし、「私は愛される存在である」と自己肯定感を高めることもできます。

 

また賢い方はもうお気づきでしょうが、上の解釈でも良いとは思うのですが、

この体験談からわかるのは「私は母から愛されなかった」と感じている「私」の経験にすぎません。

実は本当は「母が私をどう思っていたのか」はわからないのです。

体験の後半部分に「しょうもないツンデレ幼女BBAだな〜」と私は書きました。

大人になってから母親の置かれた状況を見てみると、幼い私にそう言った八つ当たりをすることも理解はできるのです。子供にやっていいこととは思いませんが、そういうことをせずにはいられない精神状況だったのだと思います。

 

絶対ダメだし、言葉や態度で子供を傷つけるのは許せない部分です。

でも「むしゃくしゃしてやった。今では反省している」という言葉があるように、

「あんたなんか嫌い!私と仲良くしてくれないあんたなんか好きじゃないんだからねっ!」と、お友達と喧嘩をしてしまった小学校5年せいくらいの女の子がいたとします。

でも本当に心のそこからお友達のことを嫌いになったわけじゃない。

でも素直になれないから仲直りの仕方がわからない。

だから、本当はごめんねって言いたいのに言えなくて、こんな風に言ってしまう。

「あの時はああ言っちゃったけど、〇〇ちゃんだって悪いんだからね!

でもだからといって私はあなたのすべてが嫌いになったわけじゃないんだからねっ!だから無視しないでよ!明日っからまた仲良くしてあげたっていいんだからね!(だから離れていかないで)」

 

お分りいただけるだろうか。

愛着障害のある方、ツンデレだったり好き避けしてしまったりする方が多いと思うので、このなんとも言えない、だけどわかってほしいみたいな気持ちはなんとなくご理解いただけるのではないかと思います。

 

母親を立派な大人で、太刀打ちできない強大な存在であるとみなし、

その上で自分は無価値で愛されない矮小な存在であると感じていると、

母親の幼稚さに気づかす、一方的に「自分が悪くて、愛されなくて、無価値な存在である」と思ってしまいます。(事実こどもだから仕方がないのですが)

 

ですが起きた事実、言われた言葉、それを大人になった自分が掘り返してみると、

違う一面が見えたりします。

そして、誰かの感情や状況は本当に人それぞれであり、その真意を知ることはできないということもわかります。

 

だから私は好き勝手に解釈をつけることにしました。

母から言われてショックだったこと。それにより「私は愛されるべき存在ではない」と思い込んでしまったこと。

だけどそれは私が子供だったからそう感じてしまっただけで、違う解釈もつけることができること。

 

そうした時に私はこういう解釈を自分につけてあげました。

「子供の頃の私は母にあんな事言われてショックで、とても深く傷ついちゃって、

その言葉を頑なに信じちゃって、しかも大人になるまで引きずっちゃって、

恋愛でもうまくいかなくって、人間関係も失敗しまくっちゃってたけど、

今ならわかる。

 

私は、母の言った言葉を頑なに守ろうとしたんだ。

だってお母さんに愛されたいもの。

だからお母さんの言う通り「愛されない私」でいる事にしよう。

そうしたらお母さん、きっと私を愛してくれるよね?

だってお母さんの望み通り、頑張って「愛されない私」でいるから。

彼氏?そんなのいらないよ。お母さんに愛してほしいの。

だから頑張って幸せにならない相手を見つけたよ?

どう?お母さん気に入ってくれるかなぁ?

ああ、またダメだった。

どうして私はお母さんの期待に応えられないんだろう。

私って悪い子!でも、悪い子でいいよね。

だって「悪い子」をやめたら「愛される私」になっちゃうし、

そうしたらお母さんの好きな「愛されない私」がいなくなっちゃうもんね!

 

こんなふうにして、私は母親の価値観や世界観を守ってきたんだな〜。

私ってなんて優しい子なんだろう!

こんな優しい子、みんな好きになっちゃうよね!

母親の一瞬の気分で八つ当たりして言った言葉を、こんなに大人になるまで厳しく守っていたなんて、やるじゃん私!すごい誠実な性格だよ!

一途だし一生懸命相手に合わせてあげて、精神的に大人だしすごく偉かったよね!

なんて愛情に溢れて優しくて誠実な人だろう!」

 

ちょっとアホっぽいですか?

おバカさんでしょうか?

でも、それでいいのだ!(天才バカボン)と、これまで頑張ってきた自分を認めてあげることにしています。

 

そうやって頑張り屋さんで一生懸命で誠実で優しくて可愛い私は、

埃にまみれたカバンを今どうしていると思いますか?

私と同じくらい、私のことを一生懸命愛そうとしてくれる彼や彼女と、

この先どうなっていくでしょうか?

ここまで読んで、どんなストーリーが浮かびますか?

 

 

■■■■■

 

ちょっと綺麗にまとまりすぎている感はありますが(笑)

少なくとも今の私は埃をかぶるようなカバンは選ばなくなりました。

それは「自分で自分がわかりはじめた」マイレボリューションでもありますし、

そうすると「私は何が好きで、何が嫌いか」が明白になってきます。

 

そうすると、人間関係も少しずつ変わってきます。

「こいつなんか変なんだけど、まいっか〜」とか

「あんまり好きな人じゃないけど、私を必要としてくれるから付き合っておくか」とか

「めっちゃデリカシーのないこと言ったりマウンティングしまくってきてムカつくんだけど、でもとりあえず友達でいよっかな〜他にいないしな〜」

とかいうことがなくなってきます。

 

だって「素敵な私」に、わざわざそんな人を与えて傷つけたいと思わないですから。

イヤな縁を断ち切ることができてきます。

断ち切るにもいろいろあり、バッサリ一切合切連絡取らない、

挨拶もしないというものからそこそこの距離を取りながら、当たり障りなく接するという切り方もありますので、

その辺りはご本人様の性格や考え方でおのおのやりやすい方法を選ぶと良いと思います。

 

※人間関係をバッサリ切ってしまって、どうしようかうろたえる自分が見えるなら

バッサリ切る方法があなたに合っていないだけですから、

自分の心が望むことを自分で叶えてあげてください。

 

 

いきなり人間関係で「素敵な私に似合う人はどれかな」なんて選別はできないと思うので、まずはスーパーの買いものなどで品物を選ぶときに少し意識して自分の気持ちに向き合ってみると良いと思います。

ガム一つ、コーヒー一つ選ぶのにも自分に問いかけます。

本当は「プッチンプリンが食べたいな〜」と思っているのに、

見栄を張ってジャージー牛乳プリンを買ってしまわないように!

その逆で本当はジャージー牛乳プリンが食べたいのに「安いからプッチンプリンにしとくか」とジャージー牛乳プリンを棚に戻さないでください。(私はこっち派)

ただし、「今月はお金がちょっとピンチだから、

プリンはプッチンにするんだ〜!」と自分で選んで決めたのなら

プッチンプリンを選んだ自分を褒めてあげましょう!(笑)

 

本当に些細で、ちょっとおバカで、でも簡単な方法です。

素敵だと感じるものは、自分がそう思うから素敵なのです。

他人の価値観ではあなたの物事は決まらないのです。

だって心では「なんか違う」って思っていますし、知っていますから。

自分が本当に欲しいものが何なのか。

 

 

過干渉な親や兄弟がいて、自分の意思や意見を持たないようにさせられていた方の場合、本当に欲しいものがわからないということは頻繁に起こると思います。

それは仕事だったり恋愛だったり、日々の生活だったりその日食べるものだったり、本当に色々な場面で出てきます。だって人生は選択の連続ですからね。

何がしたいか、何が欲しいか、自分がわからないというのは大変苦しい状況なわけです。

 

なので世間が素敵だと思っているものを買っても埃まみれにしてしまったり、

人様の旦那や奥さんや彼や彼女が素敵に見えて、横取りしようとしてしまうのです。

自分の価値基準が自分でわかっていない、

分かっていても自信が持てないので

「誰かがいいと思ったもの」に追随しようとしてしまうんですね。

 

でもそうやって選んだものは、本来の自分が欲しいと思ったものではないもののことも多いので結果的に埃まみれにしてしまったり、

人妻なのに惚れ込んで不倫したくせに「ごめん、そんなに好きじゃなかった」と言って人間関係を破綻させたりしてしまうのです。

 

自分で決めて選んでいると思っているバッグや彼や彼女なわけですが。

(ものと人を一緒くたに語ってすみません)

それ、本当に自分で決めて選んでる?

誰かの基準を満たすから選んでる、何てことはないか?

振り返ってみることは大切です。

 

例えば、ほら。

いつもあなたの意思に干渉して奪ってきて、あなたに価値観を植え付けようとした

あなたのお母さんが気に入りそうなモノや人を、無意識に選んでいたりはしませんか?

 

気づいたら、やめましょう。

自分で選びましょう。好きなものに、理由はいりません。

あなたの感覚、感性で、これが好き!というものをたくさん見つけていきましょう。

人も、モノも。

あなたが大好きだと思えるものを感じてみてください。

 

 

ちょっと脱線が多かったですが、最後まで読んでくださってありがとうございました。

 

 

 

悲劇のヒロインになりたがってはいないか?

久しぶりの更新となりました。

今回は、自分自身の中にある「悲劇のヒロイン願望」について書いてみようと思います。

 

恋愛をしていて、思う通りにいかないことってすごく沢山ありますよね。

・LINEしたけど相手からはすぐに返ってこない。(どうせ私に興味ないんでしょ?)

・勇気を振り絞ってデートに誘ってみたけど、反応が思わしくない。(思ったほど喜んでくれてない?)

・私から連絡しないと、向こうからは来ない。(私のこと、好きじゃないから来ないんだろうな…)

 

こんな風に、すごく些細なことでも自分に原因があるんじゃないか?と思ってしまう。

どうせ私って〇〇だし。。(〇〇には普段から思っているコンプレックスなどを当てはめます)

私なんてもう歳だし。太っているし。美人じゃないし。etc.

 

でもこれは自分が勝手にそう考えているだけで、相手からそう言われたわけではないことです。

まあ、統計的に見たらなかなか連絡が来ないのは興味を持ってもらえていないからだ、ということはあるのかもしれませんけど、他の可能性だってあるわけです。

 

相手は今すごく仕事が忙しくて、落ち着いたら連絡をしようとしているのかもしれない。

もしかしたら体調が悪いのかもしれない。

もしかしたら、素敵なデートプランを考えに考えて悩んでいるのかもしれない。

もしかしたら、素敵なサプライズを用意してくれているのかもしれない。

 

何も言われない、何も反応がないということを一つ取っても、

これだけ様々な可能性があるんですよね。

 

だけれど愛着障害があると、なぜかプラスの方の反応を思い描けず、

「きっと私が〇〇なせいで、相手から返事がこない、反応がないんだ。

きっと私は嫌われてるんだ、興味を持たれていないんだ。」

と結論づけてしまうことがよくあります。

 

 

マイナスのことばかり思い浮かんでしまう。

そういう性格なのかもしれないし、そういう考え方や物の見方の癖なんだと思います。

そのマイナス方向を少しずつ「そうじゃないかもしれない」可能性を見つけられるようになると、相手のことを信頼して「待つ」ことができるようになります。

 

すぐに反応がなくても傷つかない自分になれるわけです。

今、「こうに違いない」と思っていることの中に、「もしかしたらそうじゃないかもしれない?」という希望を見いだしてみませんか。

 

自分を不幸にするのは、ほかならぬ自分の中にある悲劇のヒロイン願望です。

 

なんでそんなドM思考になってしまうのかといえば、、、。

 

 

 

その方がハラハラドキドキして、恋愛が楽しいから。ですね。

愛着障害のある人は深層心理的に退屈を嫌い、新しいものが好きで刺激が好きな傾向があります。信じられないでしょうが、そういう面があるのです。

好きになって何回か連絡してデートして、相手からの反応も順風満帆で

不安になることが一つもないわ!!

という恋愛関係をどこかで恐れる心理があるのだそうです。

 

それはやはり家庭環境や親との関係に帰結していくわけですね。

 

 

今日は体調が少し優れないのでこの辺りで。

更新が止まっていたブログですが、毎日アクセスがあり、

見てくださっている方がいるのだと思うととても励みになります。

 

拙い文章ですが読んでくださってありがとうございます。

 

 

 

 

 

依存の手放し方

恋愛で相手に依存してしまうのは苦しい結果しかもたらさない。

何度か恋愛を繰り返すうちに、こう気づく。

例えば、相手からいつ連絡が来てもいいようにスマホを常に持ち歩いたり。

お風呂に入っている時でさえも着信にすぐ気がつけるように

着信の音量を上げてみたり、出入り口のそばに置いてみたりする。

 

食事の時でも、テレビを見てる時でも、友達と電話してる時でも、

ショッピングしている時でも、なんだか落ち着かなくてソワソワしてしまう。

少し暇ができるとスマホを取り出し、来ていない連絡にどこか落胆したり。

 

そうやって一喜一憂するのも恋愛の醍醐味かもしれないけれど、

それがずっと続けば自分自身が疲れてしまう。

待っていても来ない電話、メール、ライン。

だんだんイライラしてきたり。

 

相手からのデートの誘いを待っていても

送られてくる内容はなんだか恋愛とはほど遠い内容。

一週間も相手からの連絡を待ったのに、

何事もなかったかのように平然と連絡が来ると腹が立ってしまったり…。

 

なんだか自分ばかりが相手を好きでいるようで、すごく虚しい気持ちになる。

たまには向こうから求められていることを体感したくて、

わざとそっけない返事をしてみたけど相手は何も感じてないみたい。

 

もしこんな気持ちがある場合はかなり相手に依存してしまっています。

なんだかわからないけれど誰かを好きになると、いつもすごく苦しい。

なぜなら一向に相手から愛されている感じがしないから。

 

その一方で。

 

自立している側も、実は相手に依存している!?

 過去記事の相互依存の話

changestep.hateblo.jp

 でも少し触れましたが、自立側にいる人も実は自分に依存してくる相手に依存していたりします。

 

自立側の人が恋愛でよく感じるパターンとしては

・自分の気持ちがうまく言えない。

・相手がいつも先に甘えてくるので、自分は甘えられない。

・デートの予定や内容を決めるのはいつも自分だ。

・相手から束縛や要求ばかりをされる。

 嫌だと思いながらもできるだけ叶えてあげていると相手が調子に乗って要求がどんどんエスカレートしてくる。

・恋愛の最後はいつも疲れている。相手と別れるとホッとする。

 

などです。

 

このように謙虚で自立して自分からアクションを起こしてあげている側が

自立側なのですが、実は相手を甘やかし、甘えさせておくことで

自分を相手より有利な立場に保っていられるというメリットがあります。

 

ダメな相手と付き合い面倒を見てあげることで、自分の存在意義を見出しています。

ダメな男、ダメな女、と心の中で見下しながら、

「そういうダメなところのある人を世話してあげられるだけの能力がある自分」

が認識できる相手を無意識に選んでいると言えます。

 

この二人がうまくかみ合えば相互依存という

お互いウィンウィンな関係が築けますが、なかなか難しいです。

 

 
じゃあどうしたら依存を手放せるの?その方法は?

お互いがお互いに依存していたのだ、とまず気づくことが第一歩です。

そしてこのブログを読んでいる方はもうその一歩をクリアしていらっしゃいますから、

更にそこからどうすればいいのかを考えてみようと思います。

 

そもそも「依存」と言うのは「愛情」ではありません。

じゃあ「依存」の正体はなんなのかと言えば

「執着」と言い換えることができると思います。

 

この「依存」と「執着」については以前紹介した書籍

「傷つくならば、それは「愛」ではない」などを読むとその違いがよくわかると思います。

 

傷つくならば、それは「愛」ではない

傷つくならば、それは「愛」ではない

 

 

「執着」を一言で私なりに表すとすれば、

「自分さえよければそれでいいというスタンスでいること」と言えるかと思います。

 

自分のことにしか目が行かず、相手の気持ちは二の次である状態

と私は考えています。

 

今、離婚騒動の渦中にある二時間サスペンスの帝王の奥様などは

執着心の象徴のような行動をされていると思います。

第三者から見ると「愛しているなら別れてあげなよ…」などと思わず言いたくなってしまう状態です。

 

うっすら「依存」と「執着」と「愛情」について理解してもらえたでしょうか?

では依存心の具体的な克服の仕方を挙げていこうと思います。

 

 

依存の手放し方 具体的には?

依存とは、執着であり、執着とは「まず自分が大事、相手は二の次」と定義しました。

上に紹介した書籍でもよく出てきますが、

自分が依存から抜け出し相手に愛情を与える行動とは

「自分の痛みを超えて相手のために何かをしてあげる」ということです。

 

具体的にどういうことかと言うと。

・相手が別れて欲しそうだったら、別れてあげる。

・連絡をして欲しくなさそうだったら、連絡をやめてあげる。

・会うのに乗り気でなさそうだったら、会うことをやめてあげる。

 

そんなことできない!と思うかもしれませんが、これも立派な愛情です。

愛着障害があると、ついつい相手に要求をしすぎてしまいます。

もっとたくさん会いたい、連絡してほしい、デートはこうしてほしい、

私がこう言ったら相手にはこう言ってほしいなど、

実に様々な要求を私たちは抱えています。

そして「こうしてほしい」「ああしてほしい」と相手に求めてしまいます。

 

「この要求をやめてあげたら、相手は楽かもしれない」

という発想をなかなか持てないのですが、

自分の会いたいという気持ちよりも「相手は今疲れているのかもしれない」

「会いたくないのかもしれない」という

相手の状況や心理状態を優先してあげる、ということは立派な愛情を示す行動です。

 

※自立側にいる人は「今連絡したら迷惑かもしれない」とか

「こんなこと言ったら嫌われるかもしれない」とか

とにかく相手のことを第一に考えてあげ、

相手のことを気にしすぎて連絡ができないパターンなので、

自分が自立側にいるのか依存側にいるのかで依存の手放し方は変わります。

この場合は我慢しすぎている連絡を自分から入れてあげることで依存を手放すことになります。

 

「いつも自分のことを優先してしまっているなぁ」と思う人は

自分の要求をやめてみる、

「いつも相手のことばかりを優先してしまっているなぁ」と思う人は

自分の我慢をやめて、意見を言ってみる。

 

ごく単純なことですが、「まず自分」ではなく「相手を思いやること」です。

思いやりすぎている人は「自分の気持ち」を時には優先することで、

一方的だった依存のバランスを相互依存へとシフトチェンジしていくことができると思います。

 

 

一度ダメだったからと言って、すぐにやめないこと

とは言っても、普段自分の要求ばかりをしていた人がそれを止めるのは難しく、

いつも自分を出すことができなかった人にしたら

自分の意見を伝えることは恐ろしかったりしますよね。

 

また、それぞれがそれぞれのパターンでずっと人生を生きてきていることも多いので

(依存の人は恋人に限らず友人や親など人生のあらゆる場面で人に依存していることが殆どです。

逆もまた然りで自立の人は仕事や友人や親に対しても自立的で誰かに頼ったりすることが苦手だったりします。)

 

場面場面で「ああまた相手に要求しすぎてしまった」とか

「ああまた自分の意見を言えなかったなぁ」とか言う場面にたくさん出くわすことと思います。

 

そこで「やっぱり要求を押し殺すのは無理だよ!苦しくて死んじゃう!」とか

「自分の意見を言ったり相手に頼ったりするのは無理だなぁ…。

だってこの人頼りないし、自分より劣ってる人にお願いするなんて屈辱的!

こんななら自分で頑張った方が楽だよ!」

 と、また自分の持っているパターンに戻りたくなることも多々有ると思います。

 

ですが。

 

それで今までの恋愛、人生、うまくいきましたか?

ずっとそれで苦しんでいたのではないですか?

 

新しい習い事や新しい仕事に就いた時は、右も左もわからず失敗ばかりしますよね。

自分の人間関係のパターンもそれと同じです。

今までのやり方ではうまくいかなかった。

だから今度は別のやり方を取り入れてみよう。

 

そうして新しいことにチャレンジし、しかも自分の苦手な分野を取り入れていこうという苦行のようなことをするわけですから

心理的に抵抗を感じたり、やっぱり無理だとやめてしまいたくなったりするのは

ある意味当たり前のことです。

 

ですが、愛着障害に気がつき自力で解決を試みるのであれば、

これは避けては通れない道だと割り切って続けてみてください。

時々すごくこのチャレンジにストイックになりすぎてしまう人もいるので気をつけてほしいと思いますが、あまりにそれが辛い時はやめていいと思います。

また単純にあなたの相手がそこまでするに値しない幼稚な人だった、

ということももちろんあります。

 

「ダメだ!やっぱこいつは頼りにならん!」とか

「この人ぜんぜん私の思いを聞いてくれない!」とか

いわゆる

「なんで私(俺)、この人と付き合ってるの?」とか

「なんで私(俺)、この人のこと好きだと思ったんだろう?」とか

ある日突然悟りを開く瞬間が訪れることもあります。

 

もしそれが訪れたなら、それは愛着障害を克服しつつあるサインの一つかもしれません。

(※単純にうまくいかないから諦めの心理から起こるものと、

自分の内面が成長したから起こるものと区別が難しいですが、

もし後者であれば必ず自分の成長に気がつくと思います。)

 

 

 

 

愛着障害の人は駆け引きをしないことが大切

恋愛に駆け引きはつきもの?

 

恋愛をうまくいかせるために駆け引きを使おうと推奨されることがあるけれど、

愛着障害を克服したいのならば

駆け引きをしないスタイルが大切だと思います。

 

そもそも愛着障害の人は独自のスタイルで何度も相手の愛情を試し、

確認しようとするから愛着障害なのです。

そして際限なく相手を試し、その反応に一喜一憂し、

本人は辛くともそのジェットコースター具合を楽しんでしまうから愛着障害なのです。

 

相手から思った通りの反応がなければ仕事が手につかないくらい落ち込んだり。

相手が浮気してるんじゃないかと疑心暗鬼に走って束縛しまくったり。

メールやラインの返信が遅いのはきっと私に興味を失ったからだと、

今にも死にそうな顔で風呂場に向かったりしてしまうわけです。

 

 

そもそも試し行為をする時は必ず頭に理想を思い浮かべています。

本人が気づいているかはさておき。

 

例えば

「自分が急に連絡を絶ったら心配して相手から連絡が来るはず」とか。

「相手に少し冷たく当たってしまったけど、

特に自分からフォローしなくても相手が自分を好きならば、

このままの関係性が続くはず」とか。

 

 

ありません。

ありえません。

 

 

「あなたが私を好きならば、あなたは〇〇するよね?」

 

こういった思考回路を原点に持ってしまっているという自覚を持ちましょう。

そしてその思い込みは一方的であり、

相手からしたらわけがわからない場合のものが多いです。

 

なぜかと言えば、相手はあなたではないからです。当たり前なんですけどね。

相手はあなたの考えていることや感じている気持ちを、

すべて理解することはできません。

考えてもみてください。

 

 

あなたの試し行為に答えるためには、

相手は100パーセントあなたを理解し、

どんなに嫌なことをしてくるあなたでも愛して受け入れ、

そして

あなたの望んでいるタイミングでピンポイントに

欲しい言葉や行動を与えなければ、

あなたを愛しているということを信じてもらえないのです。

 

 

なんの苦行ですか?

 

断言できますがあなたの思った通りの反応をする相手は、

9割8分、この世には存在しません。

 

 

いるとしたらそれはプロのカウンセラーか、エスパーか、

あなたと同じ苦しみを味わい、

知った上であなたを愛する道を選んだ菩薩のような人です。

そういう人たちを苦しめるのは、もうやめませんか。

 

 

そして何より、試し行為をする時点であなたは自分を傷つける道を選んでいるということに気づきましょう。

だって、得られないのです。

100%であなたの愛情確認に応えられる人は、この世にはいないのです。

心のどこかでそれを知りながら、でも不安で試してしまう。

もしかしたら応えてくれるかもしれないという期待を抱きながらするその行為は、

自殺行為です。

 

そして当然ながら思ったような反応が得られない。

上記したように、あなたの要求は高すぎるのです。

普通に生活していてあなたに100%、あなたのタイミングで応えることはできません。

想像すればわかりますよね?

 

あなたにもあるはずです。

例えばゲームに夢中になっている間に、友達から電話がかかってきたとします。

あなたは出ますか?出ませんか?

セーブポイントのないゲームだった場合、どうしますか?

一旦連絡はスルーして、落ち着いたら連絡を返そうとか、

大した用事じゃないだろうからまあいっかと流してしまうことはありませんか?

 

それと同じなんですよね。

みんな色々なタイミングでいろいろな事情を抱えて生きています。

 

「期待した通りに相手に反応してもらえない自分には価値がないんだ」とか

「●●してくれないってことは、私のこと好きじゃないんだ。愛してないんだ」とか

 

勝手すぎるしあまりにも傲慢

なんじゃないでしょうか。

 

 

まあ、愛着障害バリバリの時は自分でその無価値感や

惨めさをわざわざ味わうために相手を試すということを

してしまっているのですが。

その自虐性に気づきましょう。

そして自分の不安は自分で払拭していきましょう。

何よりも、自分を苦しみから救い出してあげるために。

 

そこで私が簡単にできる克服法の一つとして、

「恋愛で駆け引きをしないこと」

 

これを推奨したいと思います。

 

 

 

正直、駆け引きしないと振り向いてもらえない相手とか、

駆け引きで追いかけてきたような相手の場合、

実は相手も愛着障害を拗らせている場合も多かったりしますので。

 

ドタキャンされた時の心の持ちかた

愛着障害はドタキャンしやすい?

 

統計的な理論があるかはわからないのですが、愛着障害のある人はドタキャンしやすい傾向にあると思います。

 

ドタキャンしやすい愛着スタイルの人は、回避型か恐れ・回避型など、

「相手と親密になることが強いから逃げ出してしまう」

という人間関係のパターンなのかなと思います。

 

愛着スタイルって何?

愛着スタイルって聞いたことないな?

と言う方には今回の記事は不親切で申し訳ないのですが、

愛着スタイルについて詳しく説明していると、これだけで記事が終わってしまうので

今回は薄く説明するにとどめておこうと思います。

 

簡潔に言ってしまえば

「好きな人がいて、きゃっきゃうふふして仲良くしたいんだけど、

実際に好意的なメールをもらったり、デートに誘われたり、

何となくいい雰囲気になったりすると

その先を想像しちゃって何となく引いちゃったり、

「この人が私を好きなわけないって〜アハハ」などとごまかし、

親密になるのを避けてしまう」というツンデレさんのことです。

 

女の人だと普段は姉御キャラだったり、

女芸人みたいに笑いを取りに行って周りを楽しませてあげるけど、

中身は純情な乙女…みたいな方が多いと思います。

ふと思いつく限りでは渡辺直美さんとかが、

もしかしてそうかな?と私は勝手に感じていたりします。

渡辺直美さんがドタキャンする人だ!

って言ってるわけではないので、誤解のないようにお願いしますね。

 

 

何でドタキャンするの?

これも一言で言ってしまえば「嫌われるのが怖いから」だと思います。

恐れの強い愛着スタイルの場合、「その場その場、その時その時で一番嫌われないための行動」を取る傾向があるのだと思います。

 

よくある例だとこんな感じでしょうか。(愛着障害の人→「愛」)

A「ねえねえ、来週このお店に行こうよ!」

愛「え?う、うんいいよ!楽しみだね!

 (本当はあまり興味ないんだよね。でもAちゃんがすごく乗り気だし、

 今すぐここで断るのは悪いよね。)

A「いつにする?●日?▲日?時間はどうしよっか〜?」

愛「……。そ、そうだね●日…がいいかなぁ?

 (ゲッ、やばい!具体的な日時決めようとしてる!

  本当は断りたい!家で寝てたいし、そんな興味ないところにお金払うの嫌だなぁ…。

でもAちゃんの誘いを断って、今後二度と誘われなくなったりしたら嫌だなぁ。

のらりくらり)」

A「時間はどうしよっか?」

愛「……。」(愛、音信不通になる)

 

〜数日後〜

A「●日の前日になっちゃったけど、愛から連絡こないなぁ。どうしたんだろう?

 ちょっと連絡してみよう。『愛、明日どうする?』」

愛「Aちゃんしつこいなぁ。

 前日にも連絡してないんだから「愛は行く気ないんだ」って察してくれないかなぁ。

何で愛の方から断らなきゃいけないの?このままじゃ愛が悪者になっちゃう!

なんかAちゃんの都合ばかり押し付けられててむかつくし、無視しよ!」

 

〜当日〜

愛「…Aちゃんに連絡しないまま当日になっちゃった。

  ま、待ってるかな?でもどうしても行きたくないんだよね!

  何も連絡しなかったらきっと責められるし、一応連絡だけしておこう!

 『Aちゃんごめんね、急用で今日行けなくなっちゃった!ごめんなさい!」

A「……。」

 

 

この例で通じたかわからないのですが、

愛ちゃんはとても場当たり的な判断をします。

 

その場、その時、その一瞬の自分の気持ちが大事なのです。

誘われた時→嫌われたくないから安易にOKする。

断る時→自分が行きたくないからNG。

 

めっちゃ単純なのですが、普通の人からはこの行動は理解できないですよね。

だって愛ちゃんは

 

「他人が愛ちゃんのこの行動をどう思うか」

「同じことを自分がされたらどう思うのか」や、

「今後の信頼関係や友人関係がその行動によってどうなるのか」

という考えが

ほぼありません。

 

 

え?

なぜかって?

自分のことで頭がいっぱいだからです。

 

「今、この状況にある自分の気持ち」

これに対して一生懸命になってしまうので、

他人のことはお構いなしになってしまうのです。

 

非常に自己中心的でわがままです。

3歳児と一緒ですね。

人と人との信頼関係が、日々の行動の積み重ねでできていることがわからないのです。

なので、過去の自分の行動が今の自分の評価に繋がるという意識がありません。

するとどうなるかと言うと、継続した人間関係や信頼関係を築きにくいのです。

当然っちゃ当然ですよね、愛ちゃんのような行動を繰り返す人とは何の約束もできません。

 

そういう人は一般社会では信頼に値しないですし、

仕事も回って来なければ人脈なんて築きようがありません。

仕事だって急にやめてしまうかもしれないですし、

結婚の約束も急に反故にするかもしれません。

 

恐れの強い愛着障害の人は、その時その時に起こる不安から逃げることに精一杯であり、

また面白いことに「他者も自分と同じように考えているだろう」という

非常に主観的なものの見方しかできないケースも多いのです。

 

 

 

「連絡が途絶えた時点で私が嫌がっていることに相手も気づくだろう。

なぜなら私がそうされたなら、そう思うから

 

 

という、客観性を欠いた判断をしてしまうのです。

人間十人十色と言いますが、

「相手は違う判断をするかもしれない」

という視点が著しく欠如していたりするのです。

 

何で言い切るのかといえば、

私がかつてこのような思考回路でドタキャンを繰り返していたからです。

そしてこの行動が相手に対して迷惑をかけている行為だという認識もありませんでした。

 

なぜか?

それは、

「私はその場その場で相手にたいして最大限気をつかっている」

と思っていたからです。

 

 

埋まった方がいいですね。。。

 

当時の私の考えがこちらです。

「相手の誘いをその場で断らない」という行為は、

「その場で相手を否定しない」

「あなたの誘いは嬉しいと思っている」という

好意の気持ちを表していると思っていました。

 

「は??」

 

 

という声が聞こえてきそうですね(汗)

 

そして「日時が迫っても約束を断らない」という行為が

「あなたのことを気遣っているし、その場しょへ行くことは乗り気ではないにしても

断ったら悪いなと思っている。それはつまりあなたへの好意を表している」

と思っていました。

 

「は??」ですよね。

 

 

第三者からしたら全く意味のわからない、自己中心的な「好意」の示し方であり、

はたから見たら「好意」でもなんでもなく嫌がらせみたいな感じなのですがね、

私はそう思っていたのです。

そして結局は断ってしまうわけですから、

相手をバカにしているとも捉えられるような非常識な行為だったのですが。

 

相手の時間や連絡を待たせているということに気づけば、

場当たり的に約束することや連絡を無視することが

どれだけ相手に対して失礼なことであるかわかりますよね。

 

でも愛着障害真っ只中な時や、

それを指摘あるいは諭してくれる人がいない場合などは

ずっと同じパターンを繰り返すことになります。

なぜかといえば、ドタキャンしたとしても本人は対して痛手を負わないからです。

 

社会人になってまでドタキャンを繰り返す人に対して、

「ドタキャンってね、相手を傷つけるしいけないことなんだよ。

あなたの評価も落としてしまうし、信頼関係を築けなくする行為なんだよ。

だから、乗り気でない時はその場で断ってもいいんだ。

むしろそこで断ることが相手への誠意になったりするんだよ。

相手にもいろんな事情があって、あなたと過ごすために時間を調整するんだ。

あなたから連絡が来なければ不安になるし、嫌われちゃったかな?とか

無理に誘ってしまったかな?って逆に気をつかわせてしまうんだよ。

だから、よく考えて約束しようね」

 

なんて言ってくれる人はほとんどいません。

ドタキャンされた時点で

 

「うわ〜非常識な最悪な奴だな。もう二度と誘わないわ」

と呆れられておしまいです。その時点で関係性が途絶えてしまいます。

 

まぁドタキャンしてしまったとしても、

その後のフォローの仕方で人間関係はどうにでも良くできるのですが、

この愛着スタイルの人は基本的に「その後にフォローする」

なんて高度なことはできないのではないかと思います。

 

なぜって、その視点がないからです。相手に悪いと思っていないからです。

「本当はボクちゃん、行きたくないんだもんね!

ボクのママみたいに察してくれなかった相手が悪いんだもんね!」

という気持ちですからね。

 

 

 

ドタキャンされた時はこう思おう

残念ながらドタキャンされてしまったあなた。

「自分が悪かったのかな」とか

「そこまでされるほど嫌われてしまったのか」とか

「無理に誘ってしまって悪かったな」とか

「もっと相手に合わせて気を使ってあげたら良かったな」とか

自分を責めたりしていませんか?

 

私はそうやって自分を責めまくって病んじゃいましたが、

自分を攻撃するのはやめましょう。

 

ドタキャンされた時、深く傷ついてどうにかして

「ドタキャンされない方法があったのでは?」とか

「私じゃなくて別の人だったらこの人は約束破らなかったんだろうなぁ」とか

原因を探ろうと何かと自分を痛めつけたりしやすい人が多いと思うのですが、

無意味です。やめましょう。

 

確かに仕事や上司や逆らったら後が怖い人とかなら、

無理やり行ったのかもしれないです。(可能性は0ではないので。)

 

相手が社会人なら「こいつ仕事なら休まないくせに」

って気持ちが湧き上がってくるのもよくわかります。

でも、そういう気持ちも無駄なんです。

まともに取り合って相手するのも、傷つくのも馬鹿らしいのです。

だって相手は三歳児の「ボクちゃん」から成長していないのですから。

 

愛着障害がありそうな相手にドタキャンされてしまった時は

上記のようなワガママ3歳児が

「僕ちゃん、今日は行きたくないもんね!」

ってその時の気分で言ってるだけだと思いましょう。

 

つまり、ドタキャンしてきた相手はあなたと同じ

「大人で、常識があって、相手のことを思いやれる」ような

成熟した性格ではない人なのです。

 

その時その時、自分が良ければそれでいい、ワガママな子供なのです。

だから

「ドタキャンされたってことは本気で嫌われたんだ。

もうこの人とはダメだ」

とか

 

「非常識な相手をなんとかしたい!責任を取らせたい!謝らせたい!」とか、

対大人にするようなことを相手に求めても通じません。

 

あなたは、悪くない。

約束を取り付けたのは相手の責任です。

それを果たすのは、相手の責任です。

それを全うしなかった相手が悪いのです。

 

当日まで約束を守ろうと努力したあなたに非はありません。

野良犬に手を噛まれた、相手が非常識な子供だったと思って忘れてしまうのが一番です。

ま、それができたら苦労はしないのですがね。

 

 

相手が子供ったって、どうしても許せない!

私も誕生日の朝にドタキャンされて、だいぶ傷ついてしまいました。

それから4ヶ月経っていますが、今でも思い出しては腹がたってしまったりします。

情けないのですが。

 

で、なぜこんなに長く相手を恨んだり憎んだり、

腸が煮えくり返って眠れない夜があるのかと言ったら

「その場で怒りを認めて表現しなかったから」

これに尽きると思いました。

 

ずっと痛みがくすぶっているのは、その時の感情を無理に抑圧しているからです。

 

なので、そのむかつく気持ちを吐き出させてあげましょう。

私がネットで見たのは、その時のむかつく気持ち、

ドタキャンなんてされて屈辱的だった、悔しい、惨めだ、

そんな負の感情を紙に書きなぐる、と言う方法でした。

 

いくら過去のことでも良いです。

本当は悲しかった、悔しかった、こんなことされるいわれはない、

相手が非常識だ、●ね!とか、包み隠さず書きましょう。

どんなひどい言葉を書いても良いです、誰も見てないので。

思う存分感情を吐き出させてあげましょう。

 

「こんなこと思うなんて私は極悪人だ」

とか思わなくて良いです。

怒りや憎しみ、辛かったこと悲しかったことも、大切なあなたの感情なので。

 

私の例を出しておきますが、私は先の記事でも書いたように自分の誕生日にドタキャンを食らわされました。

ドタキャンの連絡が入った時、私は相手のその非常識な行為があまりにも許せなくて

返事をしませんでした。

そんな誠意のない相手に返事をする必要性を感じなかったからです。

 

でも今後も仕事などで関係するような相手だったので、

翌日に「ご連絡ありがとうございました。会えなくて悲しかったですがお仕事頑張ってください」という、心にもないことを書いたメールを送ってしまいました。

腸が煮えくりかえっていたのですが、そう書いてしまいました。

 

 

自分の

「むかつく!非常識!このクソ野郎!死んでまえ!!!」

という気持ちに蓋をしてしまったのですね。

 

 

もちろんこの屈辱的なメールを送る、という行為によって

私は自分で自分を傷つけてしまいました。

ドタキャンされたら怒るし悲しいし、屈辱的ですよね。

 

そんなこともいっさいがっさい自分の中で処理をするような行動をしてしまったので、

3ヶ月くらい苦しみました。

毎日一人で泣きました。

 

屈辱的すぎて、自分で自分を滅多刺しにしたいくらいの苦しみを味わいました。

自傷行為はしたくなかったので必死に堪えましたが、

この時初めて私はリストカットする人の気持ちが理解できたと思います。

本当に苦しかったです。今も時々痛むことがあるので、相当深く自分を責めてしまいました。

 

ただ私の書いたメールはそんなに悪かったかというと、そんなことはありません。

社会人としてはもちろん、当たり障りなく、

今後の関係を思った内容で送っておくのも良かったんだと思います。

私は彼と違って今後のことも考えられる大人ですからね(笑)

 

ただ、恋愛関係になりたい相手に対してこのようなことを送ってしまったことは

非常に良くなかったなぁ〜、と今となって思います。

後悔ではなく、今後の反省として生かしたいと思います。

 

私は素直な感情を抑圧してしまったので、

そのやりきれない悲しみは我慢となり、犠牲となり、相手への恨みつらみとなって、

ずっと自分の心の中に溜まり続けました。

 

では、あの時の私はどうしたら良かったのかな?

というと、素直に率直にその時の気持ちを伝えたら良かったんだと思いました。

もちろん、言い方は考える必要がありますが。

こんなのはどうかな?と今では思います。

ちょっと重いかもしれないですけどね。

あの時に彼へ送りたかったメールを書いてみます。

 

<彼へ送るメール>

「朝いちばんに連絡してくれてありがとう。

今日までずっと連絡がなかったから「強引に無理やり誘ってしまったかな」とか

「本当は嫌なのに引き受けてくれたのかな」とか

「あなたに悪い事しちゃったかな」なんて考えていました。

だから連絡をもらえて良かったです。

 

ただ、私はあなたに会うのをとっても楽しみにしていたから、

今日のキャンセルはすごく悲しいです。

お仕事が優先なのは当たり前だってわかってるし、

できる限りお仕事のことは理解したいと思うんだけど、

私はあなたのことが好きだから、こうやって急に断られるのはやはり悲しいです。

 

都合が悪くなった時は、なるべく早めにその場で教えてね。

そうしたら私も別の予定を入れられるし、

「あなたに嫌われるようなことしちゃったかな?」って不安にならずにいられるから。

でもそうやって急な仕事にも臨機応変に対応できるのが、

あなたの良いところだとも私は思っています。

 

私はまたあなたに会いたいって思ってるから、

また別の日に埋め合わせしてくれたら嬉しいな。

お仕事がんばってください」

 

……とまあ、長いんですけど、率直な気持ちを書いてみました。

ドタキャンの連絡メールって基本短いので、その返信も短くしたろ!とか

なぜか思ってたんですけど、こちらからの返信を短くする必要はないんですよね。

 

素直に思ったことをそのまま伝える。

できれば、相手を責めずに自分の悲しかった気持ちと、

彼にまた会いたいという気持ちが言えるといいと思います。

なぜなら「私はあなたが好きだから」

それが私の行動原理だからです。

 

ま、私と彼は付き合ってるわけではなかったので安易に「好きだから」とか

使えなかったのですがね。

 

 

素直になろう

ドタキャンされて悲しかったこと。

悲しくなるのは相手に会いたかったから、

その約束を楽しみにしていたからだということ。

ドタキャンされてむかつくし、屈辱的だし、悔しいし、でもまた会いたいし。

向こうから連絡して詫びて次の約束を取り付けてほしいって気持ちはあって当たり前です。

だってその人のことが好きなのですから。

相手から再度の約束をもらえたら「ああ、いやがられてはいなかったんだな」って安心できますし、少しは傷ついた気持ちが癒されるような気がしますよね。

 

そして何より、大切なのは「そこまであなたの感情が動くのはどうしてか?」

ということに気づいて欲しいと思います。

率直に言ってしまいますと、どうでもいいと思っている相手に、

ここまで感情を揺さぶられることってないと思うんです。

私は「クソむかつくことする非常識な相手だけど、

なぜか好きになっちゃったんだ。

本当むかつくけど」

と自分の気持ちに素直に、開き直ったら少し楽になりました。

 

だから、あなたの奥底にある本当の気持ちを探して、見つけて、

認めてあげてほしいと思います。

それがネガティブなものでもいいんです。

 

回避型の愛着スタイルを持った相手に振り回されて悲しい思いをしているあなたにとって、

この記事が何かのヒントになれば嬉しく思います。

 

 

 

 

相互依存=私もOK、あなたもOK

相互依存ってなんだ?

 

前回の続きです。

私たちは産まれてすぐの赤ん坊の頃、一人では何もできません。

生命維持に必要な食事ですら一人ですることはできないので、

親に頼ることになります。おんぶに抱っこってやつですね。

 

これが俗に言う「依存」という状態です。

赤ん坊に依存って言葉を使うのもおかしな感じがしますけどね。

 

恋愛で言ったら

「あなたがいないと生きていけない」とか、

 

鬼束ちひろで言ったら

「あなたに触れない私なら ないのと同じだから」とか、

 

よくある事象では

「メールの返信が遅いのはきっと私のことを嫌いになったからだ」とか、

 

 

自分の存在価値を相手の判断に委ねている状態、とでも言いますか。

 

 

自分で自分の価値を認識していないので、

「相手が私のことをぞんざいに扱うということは、

私ってどうでもいい無価値な存在なんだ」と勝手に認識してしまう。

 

逆に言えば

「彼がいつも私を気にかけてくれて、大好きだよって言ってくれる。

メールも電話も私のしたいタイミングで帰ってくる。

デートもいつも楽しませてくれる」

 

そんな状態だときっとあなたはこう思うんじゃないでしょうか。

「相手に大切にされてる私って、何て素晴らしいんだろう!」

つまり相手が自分を大切に扱う時は、自分もまた素晴らしい存在だと感じられるんです。

 

ここで起きている恐ろしいことは、

「あなたの価値は相手が決めている」ということですね。

 

本来なら自分の価値は自分で見出して認めてあげるものだと思うのですが、

複雑な家庭で育っていたり、

恋愛関係で手痛い失恋があったりすると

自己肯定感がうまく育まれず、

自分で自分の存在を認められなくなってしまうのです。

 

自分の価値はいつも相手が決めるので、

相手の行動や言動に一喜一憂しなくてはならず、

依存している状態の恋愛ではとても苦しい思いをするハメになります。

 

その一方で「自立」という言葉があります。

「依存」の反対ですね。

 

子供がすくすく育っていく中で、

「私はもうお母さんの手は借りない!

一人でできるもん!」

と自分ひとりの力で生きていこうとすることを「自立」と言います。

 

恋愛で言ったら

「あなたがいなくても生きていけるし」とか

「彼ってなんか頼りないんだよね。私が疲れた時にもたれかかったら潰れそう」とか

「彼ばっかり甘えてくる。私は弱音を吐けないのに」とか。

 

自分は相手より大人なので、すべて一人で頑張って処理しようとします。

だって自分より弱い(ように見えている)相手は庇護してあげなきゃいけないし、

親が子供に「育児しんどいわ〜。明日食べるご飯にも困ってるわ〜。赤ちゃん、なんとかして!」などというような弱音を吐かないのと同じように

一人で解決する道を模索し、ズンズン進んでいってしまいます。

毒親の場合、ガンガン子供に弱音吐いてきたりするんですけど、それは今はスルーしておきます。話が進まないので)

 

 

あれ?自立の恋愛もなんか苦しくない?

 

相手に依存せず、自立的な立場に立って、相手よりいつも頑張って、

自分が寛容になって相手を甘えさせてあげて、でも自分は頼らない。

それもまた、とても辛い恋愛なのですね。

 

なんでか?

 

だって恋愛って一人でするものじゃないのです。

必ず自分がいて、そして相手がいて、お互いに影響し会う関係だからです。

 

じゃあどうすればいい関係になれるのか?

賢いあなたはもうお気づきかもしれませんが、

そこでようやく「相互依存」という道が見えてくるのです。

 

 

相互依存って何?

それは、お互いが「依存」の立場になったり「自立」の立場になったり、

時と場合によって変化し続ける関係です。

 

ようは自分が甘えたら次は相手を甘やかしてあげる、

自分が辛い時は慰めてもらうし、相手が辛い時は自分が慰めてあげる。

自分ばかりが一方的に与えたり、与えられたりする関係性ではなく、

必ず「相互」の関係が成り立つという思いやりのある関係性のことですね。

 

なんだそんなこと?って思いますよね。

当たり前にお互いを思いやることの大切さ。

理屈ではわかっていても、いざ本当に本気で好きな人相手にこれをやろうとすると、

愛着障害のある人にとってはけっこう大変なことがあると思います。

 

 

なんでって…?

普通の認識を、普通に育てることのできない過酷な環境にいた方も多いのです。

自分の心を守るために、自分なりの愛着スタイルを作り上げて今まで生きてきたので、

「大多数はこうですよ〜」

ってある日突然言われても、そんなものは本人の頭の中にもないですし、

感情もついていかないので理解できないことが多いんです。

 

それに恋愛に関しては普通の人でもかなり感情が揺さぶられますから、

もともと愛情に対して繊細な感受性のある人にとっては、

「頭ではわかってても心がついていかない」とか

「つい相手のことを試してしまう」とか

 

パートナーが嫌がっていると頭ではわかっている行動をしてしまって

「やめたくてもやめられない…」

「自分ってダメな奴…」

と自己否定のループにはまりやすくなってしまうのですね。

 

でもそんな自分を許しながら、パートナーと相互依存の関係性になれるようゆっくり進んでいけると良いと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「諦め」とデッドゾーン

先ほどの記事

 

changestep.hateblo.jp

 

では、諦めの気持ちを書きました。

ずっと走り続けていたら疲れてしまうのは当然なので、

疲れたら休むということを取り入れていけたら良いなとの思いで書きました。

愛着障害を抱えている人は、意識的に休まないとずっと傷心を抱えたまま走り続ける道を選ぶ人が多そうだと思ったので。

 

ただ休んだ後には戦線離脱しても良いし、

再びレースに戻っても良いと思います。

それがデッドゾーンを超えるという、新しい可能性につながるのだと思います。

 

デッドゾーンって何?

 私の今いる状況で説明してみます。

私:好きな人がいる。

付き合いたくてデートに誘ったりあの手この手で彼を落とそうと頑張ってきたものの。

なんかつれない、誘いを断られる→振られる。

そうすると「こんだけ頑張っても振り向いてくれないのね。フンっ!

じゃあもうあんたなんかいらない!

本当はあんたのことなんか好きじゃなかったんだからね!あっかんべー」

 

というように、思い通りにいかない相手に対する諦めや、

彼を落とせなかった失敗感を怒りで表現します。

 

でも本当に欲しくないものに対して人って本来は無関心だから、

こんな強がりが出てくるってことは本当は喉から手が出るほど欲しかったもの。

という見方をします。

そうまでして望んでも手に入らないからとても辛い。

じゃあ本当は「いらないものだったんだ」と思い込んだら楽じゃない?

だってそしたら、「欲しかったけどもらえなかった」って事実は見なくて済むもんね!

 

それが「あんたのことなんか本当は好きじゃなかったんだからね!」という強がりだったり「もういい、疲れた」という諦めの気持ちとして現れてきます。

 

そしてこの「もういいや」という気持ちがデッドゾーンです。

私は今はっきり言ってデッドゾーンと、

その先の相互依存に向けて前進するかのはざまにいると自分では感じています。

 

 

じゃあ相互依存って何?ってことですが、それはまた別の機会に書こうと思います。

今日はちょっと、疲れちゃったので。