愛着障害を克服したいブログ

35歳から愛着障害の克服を目指す。そのための取り組みや日々の心情、役立ったことなどをつらつらと。

一人でできる克服方法を探して〜オススメ書籍の紹介〜

愛着障害だと気がついても「さてどうしたら良いだろう?」と壁にぶつかる。

なぜなら、私は人間関係が希薄なのでこんなことを相談する相手がいないからだ。

安全基地になってくれるような人も当然ながらいない。

私の周囲にいる人もまた不安定だったり、それぞれの生活があったり(多くはハードワークに依存して恋愛を回避しているので、恋バナを嫌がる人が多い)と、

同じような恋愛の苦しみを何度も何度も相談するのも心苦しく、一度軽く話した後は悶々とネットで解決方法を探す。

 

そしてああでもない、こうでもないと頭を悩ますのだけど、ずっと同じところを回転している閉塞感がつきまとう。

そのうち考えることも嫌になって忘れようとするが、数時間〜数日後には結局また同じ単語を検索し、同じブログを何度も読んだりと

「結局時間のムダじゃないか。私は一体何をやっているんだ??」と虚しさだけが募る。

 

 

そんな時ある書籍に出会った。

『傷つくならば、それは「愛」ではない』チャック・スペザーノ博士著 大空夢湧子訳

 

 

傷つくならば、それは「愛」ではない

傷つくならば、それは「愛」ではない

 

 

セルフカウンセリングの書籍であるが、愛着障害を克服するためのワークブックとして私は使っている。

この書籍は特別「愛着障害」を克服するための本、などと書いてあるわけではないが、ある程度「愛着障害とは何か」を独学し、セルフカウンセリングを自力で試みている人であれば、

この書籍が愛着障害発達障害の白黒思考、

「正しさ」を追求するあまり人間関係が破綻してしまいやすいものの考え方を

どうやって克服したら良いのかの知恵やヒントがたくさん詰まっている。

 

安全基地がなかったり、いわゆる定型の人が周りにいない、

カウンセリングや病院に行くのも時間や心理的に負担…、

そんな人はこの本を読んでみると良いと思う。

 

 

 

ただ、自分が自分の親になる、というプロセスはなかなかに苦しい。

私はこの本を読み実践している最中だが、夜に一人ベッドの上で身悶えし、

怒りや苦しみ、悲しみや屈辱感でのたうちまわり頭がおかしくなるんじゃないかと思うことが何度もあった。

そんな苦しい思いをしても、一人で死にそうになっていることは誰も知らない。

このブログを読んでくれてる人以外は、だけれどね。

 

なので、あまりに辛ければ一旦読むのをやめる。

実行するのもやめる。寝逃げする、ゲームする、また日々に戻っていく。

でも不思議なもので、少し落ち着いたり、

また新たな疑問や苦しみが襲ってきた時にこの書籍を読むと、

心がすっと楽になることに気がついた。

 

どこにも助けを求められない、

けれど愛着障害を克服したいと考えている方には、とてもおすすめの書籍です。

 

 

ADHDのAC

「私って人格障害かも」

「私って〇〇(病名)かも」と自ら病院を受診するのは、ADHDのACが多いという記事を読んだ。

私もこのタイプで、自ら病院を受診した。

まだこのことについては勉強中なので、忘れないようにメモ。

好きな歌を持つ

どうしても問題のある異性を好きになってしまう。

私は付き合うことに関する恐怖から

「いい感じの異性がいてもなぜか付き合わずに終わる」という状態を繰り返していた。

付き合うときはいつもボランティア感覚で相手のことを見下していることが多かった。

 

「こんな非常識でブサイクで馬鹿な男と付き合ってあげている私」

だったので、相手に何か要求されている(例えば「もっとメールの返事してよ」とか、「こういう服装にして」とか)と感じると

「は?何この私に要求してるの?身の程を知りなさいよ、図々しい」

と感じて相手に対して嫌悪感がわく。

 

時には●したいほどの憎悪があるにもかかわらず、

嫌だと言い出せなくて相手の要求にひたすら合わせてしまい、

合わせた分だけまた相手を憎み見下すということをしていた。

ただ、表面的には相手に「それは嫌だ」ということを言っていないので、

相手は私が心の中でマグマを噴出させていたことは知る由もない。

 

そうして相手の要求をどんどん飲んでいくと、当然ながら要求はもっとエスカレートする。

当然ながら私の爆発する時期がやってくる。

爆発イコール拒否なので、別れ、無視、拒絶する。

相手はなぜ私がこんな行動に出るのかはわからないまま終わる。

 

付き合いが終わった後に残るものは何もない。

付き合いが長かった割に、思い出も得るものも与えるものもない、ひたすら虚しい時間とお金の無駄だった問いう思いが湧き上がる。

 

私には理想の夫婦像、恋愛像というものがなかった。

だから相手に合わせて自分を押し殺し、変え、意見を言わない、甘えない。

その代わり相手は図々しい要求(私にはそう感じられる、なぜなら私は相手に何も望まないから)を繰り返しワガママになっていく。

そこに私が甘える余地はない。と勝手に感じて相手をひたすら嫌悪し見下していた。

そして見下している相手に奉仕しているようで、いつも屈辱を感じていた。

こうして見るとただの変態ドMである。

 

少しおかしな恋愛観を持っている人に対するカウンセリングで

「本当は自分はどんな恋愛をしたいのか、その理想を描いてみましょう」というものがあることを知った。

そんなことに何の意味が?と思ったが、私には理想の恋愛像や夫婦像などなかったことに気がついた。

でも自分で0から理想の恋愛を思い描くと、必ず自分が不幸で報われない恋愛像にしかならないので、自力でやることはやめようと思った。

さてどうしようか、と思った時、なんとなく音楽の世界に目を向けてみようと思った。

 

想像に難くないだろうが私は天野月とか昔のL'Arc〜en〜Cielとかブリグリとか、陰鬱で湿った暗い世界感の音楽が好きだった。

あとは宇多田ヒカルとか、鬼束ちひろとか、おそらく同じような苦しみを抱えていそうなアーティストがとにかく好きだった。

ネガティブで救いがなく、そこからの叫びみたいな音楽と歌詞に感情移入しやすい育ちがそうさせたと思う。

 

ある時、L'Arc〜en〜Cielが「瞳の住人」という曲を出した。

ラルクにしては珍しく幸せな歌だった。

その当時に聞いた時も好きだなと思ったが、なんとなくまた聞いてみることにした。

今聞いてもとても好きだと思う。

相手への愛情に溢れて、とても愛しく思っていることがありありと伝わってくる。

そんなまぶしい歌。

ああ、こんな風に想い想われるのっていいな。そう思った。

 

それを皮切りに私は幸せな恋愛を歌った曲を探し始めた。

そうするとどんな男性が良くてどんな恋愛がしたくて、本当はこういう風にしてもらいたかったということが見えてきた。

 

私の理想

三浦大知 「ふれあうだけで 〜Always with you〜」

Jamestown Story「cry」

JUJU「やさしさで溢れるように」

 

今からでも遅くない。こういう恋愛をしよう。

 

 

 

 

 

 

母への許し、手放し

インナーチャイルドを癒しましょうという言葉がある。

ネットで検索して見つけた時、変な宗教みたいで気持ち悪いと感じてしまい、そのままブラウザを閉じた。

しかしながら今その必要性に駆られ、苦しみから抜け出したいともがいた時に

「胡散臭くてもいいじゃない、とりあえずやってみようか。

今の状態から楽になれるならもうなんでもいい」

そんな気持ちが湧いてきたので、やってみることにした。

 

当然のように私の父母は毒親なので、過去の記憶を思い出しては「許せるはずなんてない」という思いが強かった。

向き合わなければいけないシーンを思い出しては怒りがこみ上げ、その度「絶対に許さない」と再度誓ったり、時にはここには書けないような恐ろしい衝動に駆られたこともあった。

毎日そんなことに向き合うことは辛かったので、できそうな時を見て繰り返し繰り返しやってみた。

そのたび挫折し、「また今日も許せなかった」ということも多くあった。

でも今日は不思議とできた。

 

私の母は幼児性が高く、女性的で過干渉、支配的であった。

小学生だった私に

「あんたが生まれてきた時の顔を見た時、女の子なのにお兄ちゃんにそっくりな一重でブサイクで可愛そうだと思った。

本当はマリアとかアリサとか、可愛らしい名前を考えていたけど顔を見て諦めて、今の名前をつけた」

などと平気で言ってくるような女性だった。

 

そんなことを言われて育った私は立派に容姿コンプレックスを抱えたのは言うまでもない。

奥二重がイヤでどうにかして二重になりたくて、夜寝る時に安全ピンやヘアピンをまぶたに貼り付けて寝ていた。

今ふと思い出したが父親には「母親にそっくりなブタ鼻だな」と言われていたので

鼻を洗濯バサミで挟んで寝るということもしていた。

母も父も私の容姿に対して辛辣であった。

容姿批判のたびに傷心。

私はなんてブサイクなんだろうと死にたい思いに駆られていたので、好きになる異性はいつもパッチリとした二重で鼻のシュッと整った美形のイケメンだった。

塩顔のイケメンとか意味がわからなかったのはこのせいだったのかと、今この記事を書いている時に初めて気がついた!oh!なんてこと!

 

少し脱線したが、そんな所から一つだけ良いところを見つけた。

それは母がつけた私の名前だ。

初対面の人に本名を名乗ると

「良い名前ですね」とか「素敵なお名前ですね」と言われる。

 

10人中10人がそう言うんじゃないかと言うほど、そう言われるので

おそらく私の容姿とこの名前が相当マッチしているのだろうと思う。

残念な容姿の子供にやたらときらびやかな名がついていたとしたら、

容姿と名前のギャップから、このように言ってはもらえなかっただろうと思うから。

 ※あくまで個人の見解で、ただ私個人に向けて書いています。

 

ありがとう、お母さん。

私がブサイクな容姿に生まれたことをすぐに見抜き、

自分の欲望に走らずマリアとかアリサとか付けず

私のために新しく似合いそうな名前を考えてくれて。

そしてあなたのセンスに感謝します。

素敵な名前を考えてくれてありがとう。

 

そして、あなたの冷静で客観的なものの見方は私にも受け継がれているようです。

 こうして自分を省みる力が、私にもありました。

 

愛着障害だと気づく

ずっと生きにくさを抱えていた。

その原因が愛着障害から来るものでは?と30代も半ばになってようやく気づく。

 

なんで私は好きな人とうまくいかないのだろう?

好きな人にある程度まで好かれるような状態、

お互いになんとなく好意があると感じられる段階に来ると、無性に逃げたくなる。

 

「まさか彼が私を好きなわけがない。」

「こんな私を、あんなに素敵な彼が選ぶわけがない。」

そう思うと

「勘違いしてはいけない、私には愛される価値などない」

「この人は私を利用しようとしている」

 

「そんなに簡単に私に好意を向けないで。私を信じないで。

私はそんなに良い人間じゃない。私はきっとあなたを裏切る。傷つける。

だってそんなに簡単に、純粋に私という人間を信じてしまうあなたを、

私は心のどこかで見下しているのだから。

そしてそれに気づかないあなたを、浅はかだと思っている。

そんな私は汚い人間だ」

こんな気持ちが湧き出してくる。

 

だから、好きな人から逃げてしまう。
向けられた好意を素直に受け取れなくて、相手を傷つけてしまう。

 

一人は嫌だと思っても、誰かと一緒にいる術がわからない。

だから苦しい。誰か私と一緒にいて。

でも私は一緒にいてくれようとする、優しい誰かを傷つけてしまう。

側にいて、離れないで。でも、近づきすぎるのは怖い。

そんな矛盾した気持ちを抱えたまま、新しい人間関係に向かっていく。

 

 

 広く浅く知り合って間もない頃や、距離がある頃はとても上手くいく。

明るく楽しくお互いを傷つけずにいられる。

でも相手がある一定を越えようとしていると気づくと、得も言われえぬ不快感を感じてしまう。

「あなたと私はそんな仲じゃないでしょ?近寄らないで」

そんな気持ちが湧き上がり、大幅に距離を取ってしまう。

そうするとそれを察した相手は少し距離を取ってくれる。

 

寂しそうに笑いながら

「changeと仲良くしたいけど、線を引かれているって感じる。

薄い壁があるみたいで近寄れないね」

そんなことを言わせてしまう。

 

こうして傷つけて遠ざけて、去っていく後ろ姿を見送る。

でも本当は寂しくて、別れたくなくて、戻ってきてほしい。

でもそれは私のワガママだから言えない。

 

自分が悪いとは思いつつも、でも相手も悪いんだという気持ちが湧いてくる。

こんなことを言ってくる相手は図々しい人。傲慢な人。ワガママな人だと。

 

人と人とは距離があるのが当たり前。

こちらの思いやりも知らずにズケズケと言いたいことを言って、

傍若無人に振る舞う相手が悪い。

「人を傷つけないように振舞っている私は悪くない、悪いのはあなた」

そんな風に思っていた。

 

気がつけば恋愛に限らず、人間関係がいつも同じところで破綻していた。

長期的な友人関係が築けない。親友というものがなかなか作れない。

心を開いて話ができるのは、20年来の友人一人だけ。

寂しさは埋まらない。他の人はみんなと仲良く楽しそう。

私はこんなに頑張っているのに、その輪にはいつも入れない。

 

 

でも。
そろそろいいんじゃないか。
いいかげん、この苦しみから抜け出したい。

 

 

でも35年の間、あらゆる人間関係で同じことを繰り返していた。

それは他ならぬ自分に問題があったんだ。

相手が私を避けているのではなく、私が心を開いていなかったんだ。

避けていたのは私の方だったんだ。

そんな簡単なことに気がつくのに、35年もかかってしまった。

 

それから必死でネットや書籍を読み漁り、愛着障害と言うものを知った。

回避依存、恋愛依存、共依存、パーソナリティー障害、自分のことを調べるたび、そんな言葉に行き当たる。

 

ああ、私はこれだったんだ。

 

ようやくたどり着いた瞬間だった。